#22 Article 2329 Posted at 1994/09/25 00:15:24 by ISAM (MAP1129) [USHIRO]

Subject: Re:*36 うしろの正面だあれ /2328 ........... /3185(#20) /3176(#20)

なる。
 しかし、善意からでなくこういう書き込みをする人間がいるということも、お忘
れなく(ソリャオレダ)。

 主題からはなれてしまうかもしれませんが、場つなぎとして軽くながめてくださ
れば結構です。
 で、なんで一々出てくるかというと、そこに神様がいるからですねぇ(せんせい
でも結構)。
 最初に、のこのこ出てきた理由も、神様手塚せんせいが墓場から、「創作者は、
評論はしちゃいかんよ」と声をかけてくださったからでして。まあ、手塚先生は、
批評というもの自体に冷たい目をむけられていたようではあるのですが、一瞬、「え
っそれ本当」と悩んでしまったことは確かです。でも、いくら悩んでも答えという
のは出ませんよね、つまり無証明に掲げてしまっているからです(でも、それをま
んま受け止めたとしても、僕は創作者ぢゃないから、評論とかをいくらしてもいい
んですけれど・・・コノネットニハソウサクナカタガタクサンイルヨウダカラ)
 余計な話になって申し訳ないけれど、始めます。


 今回の神様は「平井和正」とHippon SUPER!「野安ゆきお」だろうと。
 前者はともかくとして、後者に神様やせんせいとしての価値があるかどうかは、
まあ無視するとして、あんまりまともなことはいってなかったりして。
 ソウカヒライカズマサッテモトモトガカミサマナヒトダモンナ
 いや、無知なわたしがこのような難癖をつけること自体が間違っていかもしれな
いけれど、両者とも前提、結論ともに怪しい話だと思うもんで、ちょっと我慢でき
ないす。
 平井和正の、世の中には作劇術というのがあってコンピュータにだってプログラ
ムできるという、ご説ですが、こりゃまた「えっ本当?!」と思ってしまった。
 そんなコンピュータがあるなら、ほしい人はたくさんいる(^_^;)
 「今、流行のシルエットロマンスとかハーレクインロマンス(流行なんすか?)
がコンピュータによってプロットを作っている」という話だが、たしかにこれって
僕もどっかで聞いたことがある。
 でも具体的にその作成風景とか、プログラムとかを見たことがある人っているの?
 ちょっとした都市伝説のような気もするなあ(シカモイシキテキニナガサレテイルソクメンモ)。
 まあ、例えばプロットというのだから、ある種のアイデアプロセッサ、しかも専
用のやつを使っているのかもしれないが、創作というものから明確にテクノロジー
な部分を分離できるという主張(本当??)を証明するために、とりあげられた、
このかなり無理やりな話題は、結局のところ、「シルエットロマンスとかハーレク
インロマンス程度ならコンピュータでもかける、しかし俺が書くのは、そうゆうつ
まらんものではなくて、人間のインスピレーションというミステリアスな部分から
生まれてきた、本当に読者を感動させる強烈なものダ」
 というようなことを暗にいうため(いや明にいってるか)だけのものなんじゃな
いのかな。
 もちろん平井和正も、神様だけど、平井和正自身も「インスピレーションという
ミステリアス」な神様を前提としている。
 さすが言魂の作家・・・HIDEさんじゃないけれど、「作品で示せ」と一瞬思
ってしまった。

 野安ゆきおのほうは、たぶんシナリオにおけるストーリーと構成の関係をさして
いるんだろうが、「構成が無い」又は「ひどい」というのを、新しいシナリオ技法
の誕生と短絡するのはどう考えても無理がある。
 構成というのはストーリーの後にくる作業で、特に映像というのが時系列的に連
続したメディアだということから必要とされている、ようするに物語の順番のソー
トとのようなもの(ダトオモウ)。
 つまりストーリーテーリングというかなりカオティックな作業から、プラグマティ
ックに取りだされた。つまり発生としては、時代的に後になるわけで、構成が悪い
というのはむしろ前段階にあって、そーゆう失敗作ってのはたくさんある。
 よって、それを取りだして新しいとする根拠などどこにもない。
 まあ、ドラマ的構成が無いのは、普通に考えればゲームはゲームであってドラマ
じゃないから、といった感じにも結論づけることができるが、ここではFFという
ゲームはドラマと等価になってしまっているから、なんとも常識はずれのウルトラ
C的、大ジャンプな不思議なことがおこっている。
 ここにおける神ってのは、ビデオゲームを無前提にエンターテイメントとしてし
まっているところだろう。
 この同化はまったく無証明におこなわれるが、むろん必要があってのことで、つ
まりゲーム雑誌なりの論者たちが映画なりアニメなりを語る語り口を借りてゲーム
というものを語ることができるようにするためのトリックなのだ。
 この「借りて」というところが重要なんだけど、ようするに、「ゲームの必然と
してインタラクティブメディア(ないしテレビゲーム)がエンターテイメント」な
のではなくて、「ゲームを語るうえの必然としてゲームはエンターテイメントでな
ければならない」ので、勝手にそう決めつけているのだ。
 そうでなければ、論者はニューメディア(古い(^_^;))なる不可解なものに、素
手で戦いを挑まなくちゃならなくなって、ちょぃとしんどいし、どーせ、ゲーム雑
誌の記事なんかはアルバイト学生がてきとうに書いているんだろうから、そーゆう
腕力は望みようもないのが現状だろう。
 でも、将棋とか碁ってエンターテイメントなのかなぁ。
 麻雀も???
 まあ、評論なんていうのはこのように有害なだけのものだという(^_^;)点ではH
IDEさんに賛成。

 とまあ、ここまで書いてこの2者に共通したまちがいがあるとすれば、それは、
創作理論、技術(HIDE氏の言うような意味での)を簡単に作品の評価の方法に
あてはめてしまっているという点にある(チトゴウインナテンカイダガ)。
 前者は、創作側の理論だが、これはむしろ今回これを例として取り上げたHID
E氏に問題がある(ただし、これを主張する平井和正の視野には、創作者ではなく
読者が映っているような気もするので、間違いじゃないのかもしれないが)。
 同様にゆーさく氏の要旨にも同様の混同が多々みられる。
 この点において、最初っからHIDE氏とゆーさく氏の主張に、それほど根本的
な差が見えなかったというのも正直なところだ(し、それが僕の最初っからの主張
でもある)。
 「うっ、業界な話」と思ったこともたしか。

 ところで、ファシズムというのは議論されることも、それについての深い知識を
得ることもなく(スクナクトモボクニカンシテハソウ、モウシワケナイ(^_^;))、たれ流される、近代的・・
・これこそハリウッド的か・・・違うな、少なくとも日本的、ヨーロッパ的という
文脈のなかでも、おおきな空白地帯であり。思想も議論も、そのレッテルを慎重に
さけようとする、又は相手に張り付けようとするという点において、とても便利な
物語ではあるだろう。
 しかし、「個人はかけがえのない個人」であるという言葉もまた、容易にファシ
ズム的だ。
 つまり、それが無証明な公理であるかのごとく提示されたとき、人間を貧しくし
てしまう元凶になりうるのだ。
 普遍的な個人を想定してしまうところに、近代の大きな勘違いがあるともいわれ
るが、少なくとも「俺」と「あなた」は違う。
 他者の人生なんてものは、たいしてかけがえがあるもんじゃない。
 同様に、他者にとって他者でしかない「俺」の人生というものもどうだろう?
 逆説的にいえば、人生は生きていくものではなく、死んでいくことなのだ。当然
のことだが、我々は通常生きているのであり、死こそ事件であり結果である。
 いろんな考え方や、感じ方などというものも元々存在しない。
 それは、夢にしかすぎない。
 しかも、それはいかなる未来やユートピアにおいても夢でしかないのだ。
 なぜなら、「いろんな考え方や、感じ方」などというものを伝えることさえ永遠
に不可能だからだ。つまり単に、「俺」であり「あなた」でしかないからであって
、思考を物理的に繋ぐ方法など存在しない(というよりも自我というものを物理的
に特定する方法さえ考えつかない)。
 その空しさをうめるのが、創作だろう。
 「俺」というものが「あなた」にも伝わっていると思える虚構が、せめてものな
ぐさめなのだ。


                              ISAM