#210 Article 14625 Posted at 2000/03/28 07:26:31 by かくた (MAP4496) []
Subject: Re: Art.14607へのレス /14611
>>71年に”8時だヨ!”になっているということはコント55号はもう >>過ぎちゃったかな?? 浅草のストリップ劇場からスタートした萩本欽一&坂上二郎のコント55号は、それ までにないスピード感あふれるギャグで60年代中半にはお笑い界のトップグループ に君臨した。 NHKの新人オーディションで審査委員を務めていた永六輔は、そこで初めて見たコン ト55号に衝撃を受けたが、舞台を右から左へ全力で走りぬけるギャグが当時のカメ ラのフレームに納まりきらないため、テレビ向きでないと判断して落選させたとい うエピソードが残っている。 ドリフVS欽ちゃんの対立構図の成立は60年代末に始まる。当時土曜8時の人気番組で あったフジテレビ『コント55号の「世界は笑う」』に対し、TBSは69年10月に『8時 だヨ!全員集合』で殴り込みをかけた。 当時のハプニング主導の番組作りの中にあって、『全員集合』の練り込まれた構成 によるギャグは視聴者にアピールし、放映初期には低迷した視聴率も徐々に上向き になり、ついには『世界は笑う』を追いぬき平均30~40%をマークするようになり 、70年3月『世界は笑う』は番組終了に追い込まれる。 それに追い討ちをかけたのは萩本の緊急入院であった。 萩本家は戦後カメラ製造を営む工場を経営していたが、一眼レフブームに乗り遅れ 倒産、一家離散の憂き目に遭う。その後長い下積みを経験した萩本の夢は、金持ち になって寿司と焼肉を飽きるほど食うことであったという。その後超売れっ子とな った萩本は本当に毎食寿司と焼肉で過ごし、その極度の偏食と過労で胆石を悪化さ せたのだ。 ちなみに萩本は入院中の病院で『全員集合』を観て爆笑、ドリフに共演を申し入れ たが断られたという噂もある。 萩本退院後、コント55号はコンビでの活動を縮小し、ソロで行動するようになる。 坂上はかつてからの演技志向を生かし、TBS『夜明けの刑事』などに俳優として出演 。萩本はニッポン放送『どちらさまも欽ちゃんです』でパーソナリティを務めたが 、番組内の「欽ちゃんのドンといってみよう・母と子の会話」が好評を博し、これ をテレビ化する企画書を各テレビ局に持ち込んだ。 視聴者のハガキを紹介するだけの番組という企画はテレビ界に前例がなかったため 、どこのテレビ局も難色を示したが、『世界は笑う』のプロデューサーであったフ ジテレビの常田久仁子がこれを採用し、74年9月に特番『欽ちゃんのドンといってみ よう!ドバドバ60分』として結実する。 そして75年4月に正式スタートした『欽ちゃんのドンとやってみよう!』は、視聴者 のハガキと非お笑い系タレントの導入というドリフと対局にある笑いで、あっとい うまに『全員集合』を追い抜いたのであった。 白夜ムック「笑芸人」はいいすよ かくた