#13 Article 9759 Posted at 1995/03/18 00:15:25 by WAK (MAP5274) [SYNTAX]
Subject: Re:*18 タイトル… /9752 ...... /16414(#148) /16322(#148)
――――――長文注意!興味のない人は読み飛ばして下さいませ―――――― > この補助動詞の「いる」は、動詞の「いる」とは意味が全然異なります > ね。WAKさんの感じている時間的な問題は、この「いる」の方にかぶっ > てくると思うんですけど、どうでしょう。 端的にいうと、「いる」によって時間の問題を片付けちゃう方が話は早いで すし私も楽なんですが、ついでにいうと、規則上はそれでも構わないといえば 構わないのですが、ではなぜ「いる」を付けねばならないのか、「いる」を付 けない連用形と終止形はどう違うかといった問題をすっ飛ばすことにもなっち ゃいますし、かねての持論である「古典文法と現代口語文法は、脈々とした流 れがある」というのが単なる建前にもなりかねませんから(つまり、アイデン ティティ崩壊の危機を感じた)、活用の発生まで逆上って考えてみます。 因みに、「咲いている」の「いる」が補助動詞か動詞か助動詞かという問題 がありますが、こんなのに踏み込んだら収拾つかないので、とりあえず名称の 問題は棚上げします。 ですから、連用形や終止形に関する文中ではとりあえず「補助動詞」という 語を使います。 まず、連用形から。 連用形は、元は名詞形だったと見ることができます。「遊び」や「滑り」な ど、現在でも連用形の名詞的用法がありますが、これは、連用形が先にあった のではなく、元々名詞形だったのを連用形として展開するようになったと考え られます。これは、動詞の連用形にどういった助動詞が続くかを見れば、一目 瞭然かと思います。 一応例示しますが、 咲きつ、咲きぬ、咲きたり、咲きけり、咲けり(*1) と、いずれも「~(する)ことが(どうなった、どうだった)」という用法である わけです。 奈良時代に存在したとされる八種の活用の内、下二段を除き(*2)、連用形に ついては全てiの音で終わっています。そこで、iの音を持つ語を調べると、や はり奈良時代には「い」が、ヒトとかコト、モノという意味を持っていたこと が判ります(古事記だか続日本紀にあります。用例の書き取りがちょっと見つ からないので、どっちだったか断定できないのですが)。また、接尾辞として 機能する例も見い出せます。 さて日本語は、動詞の語幹に助動詞、補助動詞、接尾辞などを加えていって 意味や用法を展開させるという特徴がありますよね。これが、日本語の膠着語 たる由縁なのですが、ここで「咲く」について考えれば、語幹sakにiが加わる ことにより、先ず名詞形としての意味(というか、用法)が展開されるようにな った。そこにまた、助動詞がブラ下がり、連用形としての展開を始めた。と私 は見ます。 (*1)「咲けり」については、四段動詞の已然形に付くと高校で教え、また四段 は命令形に接続という説もありますが、元々「リ」は「アリ」であって、 これが変化したモノである、と考えられています。 また、橋本進吉以来の、上代における音韻の研究から、母音がiaと続く場 合にはia→eと変化する法則が見い出されており、かつeの音については、 iaの母音連続から転化したケースが多いと考えられています。 従って、これらの条件から、sakiari>sakeriという変化が生じたとする方 が妥当と思われます。 同じように、サ変未然形(あるいは命令形)に接続という説(se-ri) も、連 用形(名詞形)に「アリ」が接続してsiari>seriとした方が良いように思い ます。 (*2)ここでは即断を避けますが、eに‥をかぶせる音があります。この音は、a i の母音連続から転化するという法則があり、「明く」の連用形「明け」 の最後の音がeに‥ですので、aka-iから「明け」になったとする説もある ようです。 で、次は終止形です。 「咲く」sakuの語尾u ですが、万葉や日本書紀に「座って、居る」という用 法があります。つまり、「ヲリ(居り)」という意味で、このu を語尾に加える ことによって終止形としたという説があります。 ということは、「ヲリ」は持続を表わしますから、終止形そのものが持続の 意味を持ち得ます。つまり、英語のbe動詞+~ingの働きに近いということです ね。 また、沖縄方言に関する本で、咲くの終止形の語尾は、「居り」が転じたも の、というのを読んだ覚えがありますから、これはあながち外れていないと思 います。 そう考えると、「あり、居り、侍り、いまそかり」と覚えたラ行変格活用に ついて、なぜ終止形の語尾がuではなくiなのか納得がいきます。というのは、 この四語はそれ自体が持続を意味しているワケですから、なにもわざわざ持続 を意味する語を、新たにぶら下げるひつようはないワケです。 というワケで、今度は「時間」の問題です。 以上の連用形と終止形に関する考察(と言う程でもないけど)をまとめると、 1) 連用形は、もともと「~こと」という名詞形(あるいは名詞的用法)を持つ ものであり、現代口語でもそういう用法がある。 2) 少なくとも奈良時代以降の終止形は、それだけで持続の意味を持つ。 つまりですね、連用形の発生と終止形の発生を比べると、その用法は全然違 うんです。で、経緯から見ると、 a)連用形(名詞形)は、助動詞・補助動詞等をぶら下げないと、持続や完了、断 定などを表わし得ない。 b)終止形は、持続以外何モノでもない。 そして、「持続」とはいっても、連用形の方の持続と終止形の持続は意味が 違いますが、これは「~こと(もの)」という名詞的用法を持つことに起因する と考えています。つまり、「「咲いている」というのは、「『咲く』ことが、 会話の主体者の気付く範囲内で発生している」ことだと思うんです。 古典のキやケリ、ツやヌもそうですが、連用形に付く助動詞・補助動詞につ いて言えば、記憶や確信の度合を決定するもので、ここが、自身が持続である 終止形のと大きく違うところなのではないでしょうか。 つまり、連用形にぶら下がる語は、記憶や確信の度合に具体性を持たせるも ので、連用形は、既にそれらの語を必要とするという条件下にある。 一方の「咲く」という終止形は、もう厳然たる事実で、会話の主体者が気付 こうが気付くまいが、とにかく「開花」という事実が持続するんです。 ですから、同じ持続とはいえ、情報の主体者の認識レベルがまず異なり、そ してそれは、文章上の展開における時間の扱いとも関連してくると思います。 「あした咲く」「来月書く」は文脈上おかしくはないですが、「あした咲い ている」「来月書いている」は、本来成立し得ないんです。これは会話の主体 者の認識下に、その時間がまだ入っていないからなんです。連用形の持続は、 会話主体者の認識可能な幅でのみ、使えるものなんです。ですから、口語にお いて必ずやると言う意味で「それは、明日書いているから」と言い得るのは、 必ず自分の認識の範囲内に「書く」という行為が入る、という強調なんです。 因みに、高校の古典において、「ケリ」を単に詠嘆と教えますが、アレはや めるべきです。「キ」は記憶が確かな様を強調し、「ケリ」は「気付いて」驚 いたという事に留意するべきです。「~だったっけ」という現代語の存在を、 古典文法の授業でも忘れてはなりません。 係り結びについてもウソを教えるし<高校の古典授業。 ということで WAK(MAP5274)