#91 Article 1461 Posted at 1992/05/06 13:47:47 by TOSHI (MAP2425) [LOVESOS]

Subject: 守れ!日曜参観その2

(承前)

 クラスで女子一番の、自慢の足がものをいって、しばらく闇雲に駆けていると、いつ
のまにか普段あまりこないところまでやってきていた。マリアたちからはもうだいぶ離
れてしまったことだろう。困ったことに自分の家からも遠のいてしまったのだが。
「いいわよね。どうせお母さんはいないんだし」
 愛子の母は雑誌の編集者である。いつも忙しそうに飛び回っている。ほとんど毎日朝
遅く家を出て夜半過ぎに帰ってくるので、彼女とは生活時間帯が半日以上ずれていた。
月に2、3日は家に帰ってこないことすらある。だから家に帰っても彼女を迎えてくれ
るのは、母が残したテーブルの上の書き置きと留守番電話のメッセージだけだ。
 彼女は行くあてもなしにぶらぶらと歩き続けた。
 仁やきららの言ったことが彼女を傷つけたのではなかった。仁はいつもあの調子で、
裏表などあろうはずがない。他人の事情を探るような詮索好きではないのだ。きららに
したところで、悪意があって言っているのではなく、胸に言葉をしまっておくことがで
きないタチであるだけのことなのである。第一、きららはマリアと合わせてクラスの姉
さん格の3人として、仲のよい方なのだ。彼女のそんな性格を気にしていたら、とても
つき合ってはいられない。
 両親が離婚しているからといって別段どうだということもない。さびしくないわけで
はないが、物事がわからないほど幼い頃に親が別れたのではないのだ。離婚を仕方がな
いと考えるほど割り切れるものではないが、さりとてあのまま結婚生活が続いていたら
と考えると、ましな選択だったのだろうと納得するくらい大人ではあるつもりだった。
愛子はただ、みんなが気を遣ってくれる、その雰囲気がたまらなかったのだ。
 ……もうだいぶ歩き続けていた。ここはどの辺りだろう。彼女は塀の住所表示に目を
やった。
 --上日昇1丁目。
 どきりとした。そこは確かあの人の住んでいる番地のすぐ近くのはずだ。養育費払い
込みの通知を母に何度か見せてもらっていて、住所に覚えがあった。そういえば、周り
の風景に見覚えがなくもない。離婚した後、連れられて、家の近くまで一度来たことが
あったからだろう。母の元で暮らすようになってからも愛子は何度か会いに行っていた
。それは、子供には父親が必要だという母の信念によるものだ。愛子にしてみれば、迷
惑な話で、照れくささも手伝って、最近は足も遠のいていたのだが。
 ……ウチが近くにある……。意識するともう駄目だった。行かない方がいい、と頭で
は考えるのだが、足は気持ちを裏切って、セカセカと通りを進み始めた。
「別に会うわけじゃないわ。会ったって何も話すことなんてないんだし。ただちょっと
ウチをながめてみたいだけ」
 自分に言い聞かせようと、声に出す。
 通りから見当をつけて脇道へ入り、角を曲がると、記憶にあるT字路にでくわした。
ここだ。このT字路を左へ曲がると後はもう一直線のはず……。自然足早になる。
 T字路まであと2メートル、1メートル……。
 そのとき不意に人影が角を曲がって現れた。おそらくは親子の二人連れ、父親らしき
男と小学校へ上がる前らしい小さな男の子の二人連れだ。手をつなぎ、仲睦まじく何や
ら楽しそうにやりとりしている。
 ウチが間近に迫って、知らず緊張していたらしく、いつのまにか唇を真一文字に結ん
でいた。それを他人に見られたかも知れないと思うと照れくさく、歩みを止め、素知ら
ぬ顔で、親子をやり過ごすため道を開けようとした。そのとき、愛子は気がついた。
 慌てて顔を伏せたが、向こうも気がついたらしい。息をのむ気配が彼女にも伝わって
くる。
 愛子は踵を返し、今来た道を駆け出した。

 --今日はいったいどのくらい走っているんだろう。はあはあと息をつぎながら、愛
子は考えた。
 先ほどの光景がまだ目に焼き付いている。あんなやさしそうな表情、見たことなかっ
たな。隣の男の子もほんとに楽しそうだったし……。
 ふいにすいぶん前のことが思い出された。まだ離婚する以前のことだ。母と話してい
て、どうしたわけか愛子が生まれたときの話になった。
「あの人はね、男の子が欲しかったのよ。俺の子なら男に決まってる、なんて勝手に決
めつけていて」
「じゃあ、あたしが生まれたときはがっかりだったでしょ?」
「ううん、そんなことはないわ」と母はにっこり微笑んで、「もう、大喜び。世界中の
誰からも愛されるように考えたんだ。どうだいい名前だろうって、わかるはずもないあ
なたに向かって何度も話しかけてたのよ」
 それからだ、彼女が男の子のように髪を短くしたのは。
 横にいたのは、あれは確かに男の子だった。
 ふいに足から力が抜けた。大きく息をつくと手近な塀に寄りかかる。
「……なんてメイワクよ」
 愛子はぽつりと呟いた。視界の隅を何か黒いものが横切ったような気がしたが、そん
なものに気をとめている余裕はなかった。(つづく)