#7 Article 1579 Posted at 1990/03/30 08:47:40 by あかねちゃん (MAP641) [EMI]

Subject: マジカルエミ#38~あかねちゃんの私的魔法少女論~

マジカルエミ#38「さよなら 夢色マジシャン」~あかねちゃんの私的魔法少女論~

 マジカルエミの再放送が終わりましたので、ここでマジカルエミの作品性を考えて
みましょう。論文の場合に丁寧語を使うとなんかまるっきり説得力がないので使わな
いことにしまして、ではではスタート。

 ~「私的魔法少女論」 マジカルエミ編 あかねちゃん版~

 マジカルエミで全38話を通して描かんとしたことを考えてみると、なによりもま
ず舞という少女の精神成長の物語であったと言える。ではその精神成長とは一体何か
? それは、#36~#38で描かれている部分であるが、それをさらに突き詰めて
言えば、結果より過程に重きを置く、つまり過程があってこそ結論が意味を持つとい
うことに気付くということであろう。と、いうことは、すでに何度も語られているだ
ろうから今更改めて言う必要もないかもしれない。私の理論はここを基準として進行
する。

 マジカルエミの世界は、どのストーリーを取っても舞から直接手の届く範囲しか描
かれていない。つまり、マジカルエミには経済観念というものは存在せず、また小金
井や国分寺がどのような生活をしているのかなどの舞にとってどうでもいいことは脚
本家が趣味で書きでもしない限りは一切描かれていない。しかし、マジカルエミの作
品を構成するカットは舞が魔法を使う点ぐらいを除けばすべて現実的世界の1カット
であり、逆に言えば現実の積み重ねによってマジカルエミは作られていると言える。
ところが、マジカルエミでは暗いイメージを持った現実社会の重みというのは一切描
かれていない。
 ここで、エミの存在意義を考えてみる。エミというのは小金井にしてみれば飯のタ
ネであり、マジカラットにしてみれば救世主的存在であると言える。そして、エミは
舞にとっての理想像と言えるエミリーの自分版である。自分の望む姿であり、またそ
れが回りにとっても好影響であるのだから言うまでもないと思われてしまうかもしれ
ないが、実際は違う。それは、マジカルエミというのは舞にとっての完全理想像であ
っても自分が求めるべき姿ではなかったからである。そして、舞はいつでも自分の気
持ちを満足させるために変身しているわけではない。そこの裏には描かれない経済関
係があり、舞は実質的にはマジカラットを救うために変身しているのである。
 無論、舞は自己満足のために変身していないわけではない。しかし、それは最初の
うちだけで舞の魔法への興味があったからこそ趣味で変身する気にもなったわけで、
それが何回も度重なり、いわゆる惰性化してしまったら・・・・・実際にそうなって
いるのではないか? マジカルエミという作品内でのエミという存在は最初のうちは
クリィミーマミの中のマミの存在に近かった。しかし、回が進むにつれてエミの存在
意義は希薄になり、いわゆる提供会社との関係のために描かざるを得なかったという
単なる義務感のみによって少しだけ描かれているというのが実際である。
 それは何故か? 魔法少女モノとしての完成度を追及する手段として魔法を使った
時のエミ(自分の虚像)を主人公である舞が否定するという方法を取ったからである。
 そして、エミに焦点をおかず、舞という現実の少女を描こうとしたからである。
 しかし、この手法もまた別の欠点を生み出した。それは、魔法というものに意味が
なくなってしまったことである。魔法はマジカルエミでは変身する以外にはほとんど
使うことが出来ない。つまり、変身することに意味がなくなるのだから、魔法少女と
呼ばれるにはあまりに貧弱になってしまうのである。
 その代償として、エミの存在価値が薄れる代わりとして、舞の存在価値を高めるこ
とは確かに成功した。しかし、それならば何も大きく「魔法のスター」と銘打つ必要
はない。魔法は、結果的に最終回での演出効果としての意味合いが強く、本来描くべ
きエミと舞との対比は実におざなりにしか描かれていない。マジカルエミはシリアス
一本線でも通せる場合があるのに、と残念に思わせる点である。

 エミの存在が希薄になるのと同時に、エミの人格も希薄になってしまった。例えば、
マミやペルシャなら、変身後も一個の人格があり、そして意識があった。ところがエ
ミは、変身が義務感からなされるせいもあってエミというものの人格が薄れてしまう
結果を招いている。そして問題なのは、将の位置付けである。クリィミーマミなら明
らかに、俊夫はマミのことを好いていた。しかし、将の場合はどうだっただろう? 
暗黙的了解の上で将とエミと舞の三角関係が視聴者の頭の上に描かれるのに、画面上
ではそう思わせる要素が、あまりにも少なすぎる。何故そうなのか? 第一には、エ
ミの出場回数が減ったことがあるだろうが、シナリオが舞を中心として描かれており、
そして舞の思考アルゴリズムが「ふん、あんなやつ!」というセリフで象徴されるも
のであるからだろう。
 舞が何故そのような思考回路を持つことになったのか? 単純な解答を与えてしま
うならば、舞には将という人間自体が理解出来なかったのだろう。何故なら、マジッ
クが出来て何故かボクシングに力を入れ、何を考えているのか理解出来ず、将がエミ
のことをどう見ているか・・・・無論その裏側には舞がエミであるという事実がある
・・・・というのも完全に理解出来なかったからだろう。
 これが作品に対して好影響を与えたかどうかは、難しいところであるが、こう考え
ればあながち失敗とは言えまい。マジカルエミの最終話では舞が将の後を追って行っ
て笑う、という結末でシナリオが締めくくられるが、これは舞が自分の気持ちに素直
になることが出来た、つまり気持ちの整理がついたということになる。精神成長は直
接的には舞に過程の重要さを認識させたが、それと共に将の存在を気付かせたのであ
る。そのような状況を作り出すためには、優と同じように将にべったりくっついてい
ることでは為しえない。結果論ではあるが、決して失敗とは言えなかっただろう。

 さて、過程の重要性に気付く舞の精神成長がマジカルエミの最大の見どころであり、
そして最大の魅力であると思うが、だがしかし、マジカルエミの最大の問題点は、こ
れらとは全く違うところにあるだろう。実際、マジカルエミは視聴率を取ることが出
来なかったし、マニア評を別にすれば一般評価は悪くはないものの良くは無かった。
 作品の一般評が悪いというのは、作品のマニア評による完成度の高さ低さが直接反
映されるわけではない。一般視聴者にとっては、面白ければ可、面白くなければ不可
であり、最終話の完成度云々など、そんなことはどうでもいいことである。第一、す
べての視聴者が最終話を見るわけではない。最終話まで見ないと作品に評価を下さな
いというのはファン・マニアだからこそすることであれ、一般視聴者がそんなことを
するはずもない。しかし、一般視聴者による一話だけを見ての作品の批評というのは、
決して間違った評価ではない。作品は最終話だけで構成されるのではない。ならば必
然的に一話一話の完成度と面白さが追及される。そして、マジカルエミは実際には視
聴率を取ることが出来なかった。何故そのようなことが起こったのであろうか?
 まず、クリィミーマミ、そしてペルシャの後番であったことが考えられるであろう。
つまり、マジカルエミは惰性化したぴえろ魔女っ子シリーズで、クリィミーマミに作
風を近付けたという問題がある。言い換えれば、クリィミーマミ、マジカルエミが成
功したかしないかは別として、保守的風潮の元で作られた。いや、制作者がそれを狙
っていたかどうかは分からない。しかし、表面的な部分を取れば、舞と優はルックス
もそんなに大きな違いがなく、変身すればアイドルである。他のアニメとは全く異色
の魔女っ子モノであるが故の共通性もある。形こそ違っていても、内面的にクリィミ
ーマミに通じるものを感じたとしても、そんなにおかしくはないだろう。
 ただでさえ、原案をマーガレットの「ペルシャがすき!」に取り、冨永み~なさん
まで起用した魔法の妖精ペルシャが失敗したばかりである。それに加え、3作目にも
なった魔法少女シリーズに対する、一般視聴者のマンネリ化したものに対する目とい
うのも、どこかしらに合ったろう。ペルシャの魅力は、突拍子もないペルシャのセリ
フから行動まで、ペルシャそのもの、すべてによるものであった。だから、ペルシャ
はその行動を見ているだけで心が暖まってくるのである。
 それに対し、舞はごく普通の女の子であり、ちょっと見た感じでは魅力を見い出す
ことの出来る女の子ではない。舞は普通の女の子であるが故に、視聴者をアニメに引
きずり込む能力を持たなかった、いや、持てなかったのだ。
 同じ魔女っ子シリーズで視聴率を維持するためには、前作以上の完成度と、そして
インパクト、面白さが何よりも必要である。だから、マジカルエミは本来、マミのリ
メイクとしての側面を、一切捨てるべきであった。しかし、どこか捨て切れない部分、
いわゆる不安感があったのではないだろうか?
 しかし、これだけの問題なら、新しいファンをつかむことも出来たであろう。まだ
別の問題が残っているのではないか?
 マジカルエミは、インパクトがない。それは、舞が突拍子もない行動をしないから
という理由では決してない。つまり、マジックにインパクトがなく、シナリオの進み
方が淡々としているのである。
 まず、マジックにインパクトがない。これは、仕方がないと言えば仕方がない。ア
ニメという手段を使っている以上、画面上でエミが分裂したところでたいした驚きは
得られない。だから、マジックをするシーンは歌にシンクロさせたアクティブな画面
構成をすべきであった。いや、そうしないと、作品内におけるマジックというもの自
体の存在が危ぶまれるのだ。マジカルエミで、どんな視聴者も引き付けることの出来
るシーンの一つとしての可能性を持っていたマジックのシーンが、義務感によってた
だ何の奇もない手品をちょこちょことやってそれで終わりでは、面白くもなんともな
い。あのマジックのシーンで面白いと思った人が何人いただろうか? マミがステー
ジで歌っているのを見て、面白いと思った人が何人いただろうか? マミにも言える
が、このようなシーンを、単なるシナリオのおまけとして、否、シナリオの蛇足とし
て何の考えもなく付け加えるスタッフに疑問を感じずにはいられない。ただでさえ、
このようなシーンは視聴者の目を引くのである。こんなつまらない描き方をして見て
いること自体に苦痛を感じさせるのでは視聴率を落とす原因と言われても仕方がない
だろう。同様のことが変身シーンにも言える。ペルシャの時は背景もそのままで毎回
描き下ろし、とまでは行かなかったもののかなり種類があった。しかし、マジカルエ
ミではどうだろう? 背景が突如として薄青に変わり、毎回同じパターンで変身する。
時には視聴者に、罪のない少女たちにアピールするようにプリット(舞が変身に使う
道具の名称)のアップまで出て、しかも実際の製品と同じくハートマークの上では星
型がくるくると回り、そしてチューブの中ではキラキラと光るものがきらめきながら
高速移動する。このようなシーンは視聴者に飽きを感じさせてしまい、その後の見る
気力を喪失させてしまう。変身シーンがペルシャのように短かったり、パステルユー
ミのようにシナリオ上の必要事項が魔法シーンに含まれるのならいざしらず、何の意
味もないあの変身シーンをやたらと長ったらしくやることに、苦痛を感じなかっただ
ろうか? ビデオを見ている時に変身シーンだけ飛ばすなどという方法を取ったこと
はなかっただろうか?
 さらにそれに加えてシナリオの進行のつまらなさがある。どんなストーリーでも、
キャラクターが取る行動は必ず見えてしまう。自然事象としてどんなことが起こるか
は分からない。しかし、キャラクターが取る行動は必ずこれ、といったものがある。
舞という少女は、優やペルシャやユーミと違って実際に現実世界に存在してもおかし
くなく、思考回路も実際の少女のものと大きな違いもなく、将にまつわる部分も理解
出来なくない。いや、これは舞だけに言えることではない。マジカルエミすべてのキ
ャラクターに言えることなのだ。マジカルエミという作品を構成するのが現実のカッ
トである以上、キャラクターも現実的でなくてはならない。だから、行動が一般人間
的になってしまうのである。そのため、シナリオの進行には枝道がななり終わりまで
一直線になり、実際にその経路をたどってしまってしまっている。ある意味では仕方
のないことだが、ドラマ性を追及するはずのマジカルエミがこのような展開しか出来
なかったのは何故だろう?
 それにはエンディングにパターンが存在する、というものがある。各ストーリーは
日常生活の絵日記である。この「日常生活」というのは、似たような毎日の繰り返し
の積み重ねではないか? 日常性というものをベースに置き、また舞というのが一般
的女の子であるという以上、毎日のように事件が起こったりすることは有り得ない。
日常が続く以上、必ず元のさやに戻る。マジカルエミに限らずアニメのほとんどがこ
の繰り返しである。しかし、それにしてもマジカルエミはマンネリ化が激しい。とい
うのは、マジカルエミの場合は舞の生活だけでは成立しない。つまり、舞がエミに変
身するためにどうしてもエミの生活というものもかかわってくる。エミの生活のベー
スには、必ず小金井などの社会人の生活というものがある。社会に出てしまって、毎
日のようにすてきなことが起こるというような状況が、果たしてあるのだろうか? 
惰性で動き、毎日がマンネリ化している一人の社会人、小金井の元で働いているエミ。
それを象徴付けるかのように毎回のように何故か行われるマジックショー。結局、マ
ジックショーなくしてのマジカルエミが特異な存在になってしまうというとんでもな
い状況が、実際出来上がってしまっているのではないだろうか?
 このような状況下ではシナリオの題材となるべき材料がどうしても不足してしまう。
妖精という便利な存在が多用されるのは、結局のところ材料の不足によるものではな
いだろうか? そしてまた、脚本家の趣味によるエンディング・・・・おそらくは感
動させようとしているのであろう、失敗としか思えない結末・・・・に、どうしても
パターンが現れてしまうのだろう。題材が少ないのであるから、仕方がないことでは
ある。ならば、題材を探して欲しかった、というのは間違いなのだろうか?

 マジカルエミの一般的成功不成功は、確かに視聴率が物語っている。
 しかし、マジカルエミとて短所ばかりではない。実際、物語として語った「過程の
重要さ」は意味のあることであり、そのプロセスも、見事なものだった。
 ペルシャもそうだったが、マジカルエミの失敗には提供会社のせい、というのも無
いことも無い。蝉時雨はOVAということで変身という束縛もなく、実際に一度も変
身はしなかったが、しかし、物語の完成度は高い。マジカルエミにおいて、変身とい
うものはシナリオの完成度を決める要素ではなく、マジカルエミでのシナリオの完成
度というものは、シナリオが本質的に面白いかどうかにかかわってくるのである。だ
からこそ、マジカルエミの失敗は、何と言ってもエミの存在の矛盾が引き起こしたシ
ナリオの矛盾と、変身という束縛から離れることが出来ずに変身にこだわってしまっ
た中途半端なシナリオ、ということになる。

 マジカルエミが素晴らしい、ということはMUK さんが証明してくださっている。確
かに、素晴らしいということは実際を知れば誰もが認めてくれるだろう。しかし、素
晴らしいということと、面白いということは同値ではないということをスタッフの人
達が、もっと早く気付くべきだった。パステルユーミでそれを実行しても、手遅れだ
ったのである。

 ~「私的魔法少女論」 パステルユーミ編 あかねちゃん版~に続く

                         MAP641 あかねちゃん

PS.もっとも、修学旅行の前に多分魔法の妖精ペルシャ編がアップされるでしょう。
   久し振りに長いアーティクルを書いたのでした。(実は、一度打ち込んだ後、
   プリントアウトして訂正を加えているのです。割と気合が入ってるのでした。)

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