#6 Article 1001 Posted at 1990/04/19 00:10:28 by ISAM (MAP1129) [RANMA]
Subject: Re:*18 らんま1/2熱闘編#22 /1000 ...... /980 /978
ははは、なんといっても無意味な風呂場のシーンが多いアニメはらんまじゃなくてド ラエモンだったりして・・・ しかし、高橋留美子の漫画の根本的な構造としてそういったシーンが多いということ は考えなきゃまずいと思いますね。 逆に、「らんまとあかね」の関係といったものは実際には直接話の表面に出てくるわけではなくて読者には隠喩として理解されるわけで、実はその部分の意味(隠喩部分、この場合は「らんまとあかね」の関係となるか)は我々が勝手に充足しているのです。 この充足がファン的な思考(やファンの行為)の源泉とすると、隠喩に対してさらに 充足を続けることによってファンは独自の意味の王国のようなものをつくりあげようと 試みるんじゃあないでしょうか。充足された部分というのは既知になったわけですから、 その部分については全てを言当てることができることになり、それは作品を直接的に自 分のものにしたのと同じことになるわけですから(神話化なんて言っちゃてもいいんで しょうかねえ、恥かしいけれど)。 ただ、我々が生きているのと同じように作品(作家)も時代の中で生きて変転してい くわけであり(まだ連載中ならなおさら)、また我々自身の視点さえも常に動き変化し てるわけです。同様にして充足は主観的であり、そういった外的な要素も加えて王国の 地盤は常にゆるがされているのです。 そういった時に、既に構築された作品(作家)に対する理解を打ち崩し、最構築を繰 り返し続けるといった行為をファンとしてのアクティブさ(楽しみ)とするってえこと も一つの考え方としては可能ではないかとはいえないでしょうか?(保守的でいるより も能動的であったほうが面白い・・・と) という風に思ったの・・・別に新説じゃなくて借物だけれども。 まあようするに、あるシチュエーションを固定的に想定して(例えば理想化という形 で)、それに対する差を常に同様の言葉で差し示すというのは、算数みたいで面白くな いなあ、と思ったんですよ。 つまりコビならコビで、あるものが常にコビであるような状況はつまらん、というこ とですね(我ながら勝手な意見)。 てなことを書くと、コビという言葉一つでも色々意味が異なってくるわけてすし、現 状でもすでに変化してきたと思うので、「ヤッパこーゆうこと言ったりしあうのがファ ンだよなあ」と勝手に悦に入っときますけど、いいですか? 根本氏のアーティクルを読んで思ったのだが、所詮コビはコビなのだ。 つまり感情としてはコビなんすから。 PS. あかねちゃん、ネタ本の「ゲーデル・エッシャー・バッハとBD」は昔あれだけ言っ たんだから、要約くらいしてよー(と甘える)。 ついでに論評して。 ・・・ははは、忙しかったら結構ですけど(そのうちコピーちゃうだい)。 これが沼1号だ(うそ)、当の本人が何書いてあんのかわかんねえぞの ISAM