#43 Article 932 Posted at 1991/02/09 14:39:20 by ISAM (MAP1129) []

Subject: 魔法が云々という話の話が云々

魔法について、ちょいと雑文を・・・

 魔法というのが、結局のところなにものであるかというと、事象の短絡です。
 もっと具体的にいうと、意志と現象が直接結びつくことです。
 一般に、物語がより「ファンタスティックだ」と称されるのは、意志の側が、意識面
より人間の無意識の方向に大きく引っ張られるときでしょう。
 つまり、物語が意識上に昇ってくる事象だけを問題にするなら――ここで言葉の細か
い意味といったものを犠牲にして分類するなら――それは、ファンタジーではなくむし
ろメルヘンだということになります(というわけで、この説でいくと当然「魔女の宅急
便」はファンタジーです。でも、より意識の深いレベルに達するほど「ハイ」なファン
タジーかどうかは僕にはちょっとわかりません。見識あるかたの意見を待ちたいと思い
ますね)。
 魔法の論理(ロジック)というのは、意識下の精神世界のロジックであり、物語にお
けるそれとは、我々視聴者が共有しなければならないものです。
 なぜなら、少なくとも我々が多少の納得を得られる程度に精神と現象が結びついてい
なければ視聴者の心の中にドラマを発生させることができないからです。
 納得というよりもむしろ直感と言い表したほうがいいかもしれません。納得というと
、あたかも意識上における働きのものであるような気がしてきてしまいますから。
 つまり、魔法の論理というのは、見ている側が適切な直感を得られる程度には、文化
的なものでなければならないということです。

 直感というのは跳躍でもあります。
 ということで、今まで比喩的に論ぜられている、跳躍とか心の翼とか、心の自由とい
った言葉の意味が徐々にですが明らかになってくると思います。

 雪のラビリンス以降の回はまだ1回しか見ていないので、ここではパスしておいて、
最終回によって評価が改まったと思われる、某サーカスについて考えてみましょう。
 サーカスの空中ブランコにおいて、演技者をブランコに強く結びつけているのは、実
は観客の意志であったりします。
 結局のところ、ようこがブランコから落ちた時に、そのブランコをつかもうと伸ばさ
れた手は視聴者によって強く上に引っ張り上げられたのです(TV画面にはたぶん無意
識のベクトルが常に働いている)。
 我々は、ブランコの上に座って、その手を掴んだわけでもなく、ブランコの位置を恣
意的にちょいと下にずらしたわけでもなく、彼女の足元で土台になったわけでもなく、
単に脇に立ち、両手でなくむしろ片手でもって、その手ではなくて手首を持って上に引
き揚げた(というよりもアングル的にはさしあげた)はずです。
 というわけで、心の翼云々というのは、比喩的な意味として考えるぶんには十分面白
いことがわかります。
 背中の翼は、観客がそれを見ていた、というものにすぎないわけですから。

 ただし、魔法というのは方法であってテーマではないと思いますから。アニメ「よう
こそようこ」のテーマが、心を自由にする云々だということはないと僕は思います。


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