#4 Article 547 Posted at 1989/09/21 22:43:48 by ISAM (MAP1129) [MAJOTAKU]
Subject: 魔女の宅急便の感想
というわけで、僕も魔女の宅急便を見にいって感動したのでかんそー文つうのを書い てみたいと、思います。 題して・・・ 「あ~あ、中年ってほんとすけべよねえ」 えーっと、宮崎駿監督の最新作「魔女の宅急便」はとってもオーソドックスな作りで 大変楽しい作品になっています。しかし、映像作品として考えたときには傑作であると 断言できるであろうこの映画も、映画、又は物語として捉えたときには弱冠?マークが 付かざるえないのも事実です。 それを映画というメディアのキャパシティと考えることはもちろん可能ですし、僕も そう考えます。なんにしろ非常に魅力的な作品であるのは変らないわけですから。 しかし、それが宮崎駿という人自身にとってもそうなのかは、難しい問題です。彼の 信条としては、狭い意味での映画(ドラマ)というものに対するこだわりというのが常 にあると思うからです。 この映画は、単純に技術的なことを考えると、宮崎作品というものについてまわる、 空を飛ぶという行為がより洗練された形で描き出されてきているといえるでしょう。 なんといっても蓄積の力だと思うのですが(それとも血かな)、宮崎監督という人は 人間を飛ばすということの演出については、映画というメディアに関わる人間のなかで も頂点に近いレベルに達しているといえるのではないでしょうか? 残念なことに後半へ行くほど陳腐化していきますが(これはむしろ当然なのですが)、 映画の序盤におけるキキの飛翔というのは、それだけですでに感動的でさえあります。 これについては長々と書く必要はないでしょう。宮崎監督自身がごく稀に口に出す、ス ーパーマンというアニメ作品を思い出すときに、偶然にも特撮映画のスーパーマンがス ーパーヒーローの物語というよりも、生身の人間が飛行し猛スピードで疾走する(加え て、地下にもぐる。しかし宮崎監督の作品であるコナン、カリオストロ、ナウシカ、ラ ピュタ、などにあったこの地下深くもぐるという行為はトトロで希薄になり、ついには 魔女の宅急便では消失してしまった。それらには地の底=死の国での再生といった雰囲 気があったのですが、これではあまりにもあたりまえすぎるのでしょうねえ)映画であ ったのと同じようにです。 ここで、自立ということと飛翔が密接に結びついているなどという話はあまりにもつ まらないなのであえてしませんが、故郷を去るときは、結構あぶなっかしかったキキの 飛行が、街にやってきて居を構えたとたん目に見えて上手になってしまうという、描写 にもそれはある程度伺えます(別に訓練とかそういった問題を抜きにして、変化という のが突然に訪れるというのは、しごく妥当な表現だと思います)。 しかし、このように映像的な美しさや完成度に目を奪われると、一旦、そこから一歩 下がり我々がそれを物語としてつかまえようとしたときに、その内包する矛盾のために 理性と感覚の間で引裂かれ大きな憔悴感を味あわされてしまうことになってしまいます。 魔女の宅急便はいわゆる御都合主義とは違い、一見偶発的に見える事柄でも実は必然 的である、という多くの事件によってドラマが進んでいいきますし、魔法が弱まること についても、その理由といったものを幾つかのイメージによってきわめて自然に表現し ているといえるでしょう。 しかし、残念ながらこの作品では、それらは逆に行き過ぎ破廉恥だと思わせるところ まで行ってしまっています。例えば監督という神の手によってキキ与えられる多くの試 練は、いかにも人間として成長するうえで必要不可欠なものである、と言わんばかりで すが、本当にそうでしょうか? それを中年のいい年こいたおっさんが言うのはあまり にもすけべいだと僕は思います。 幸いなことにも、それが説教にならずにすんでいるのは、そういった言葉は全て監督 自身にもはねかえってくるからでしょう。しかしそれは逆に決して本人にとっても容易 な試練とはいえず、最後にはついに自虐的にもストーリーを力で押し曲げ、「ただ通り 過ぎていく風」と称す事件によって、少女をヒーローに祭り上げてしまうのです。 ここで象徴的なのは、事件は最初にテレビ画面上で、報道されることです。その白黒 の画面の中で展開されるのは、それまで描き出されてきた落ち着いた美しい風景とは異 なり、あまりにもマンガ的な状況で、それをお手伝いのバーサが子供のような目をして 喜々として眺めるわけですが、それは物語の序盤でカゴを届けてもらった少年がアニメ にじっと見入るというシーンと妙に重なって見えます。 物語中で、なぜ存在するか、その必然性を考えるのが難しいこの2つのシーンを単純 に結びつけることが許されるならばその示すところはあまりにも明確でしょう。 しかし、ここで、マンガ映画へと回帰してしまう演出を宮崎アニメの本質だなどとの たまうのはほとんど意味がありませんし、むしろそのせいで我々は物語の結末をうまく はぐらかされてしまったことに気がつきます。 それはあまりにも作為的なので、一種のメッセージに近いものなのではないかと思わ せるほどですが。もっと単純に考えれば結末は無い、としてしまった方がいいのかもし れません。そして奇妙にねじられたストーリーはむしろ、力を失い失速しそうになって いる物語を救う苦肉の策であった、と諦めることさえ我々に要求します。 邪推をすれば宮崎駿監督は、たぶん物語を消し潰したくなってしまったのでしょう。 しかしウルスラの言葉を借りるならばキキに会ったために描き続けることができたので はないでしょうか(物語中においてもこれは比喩的だと思うのですけれどね。実際にそ うであるかは難しいところです)。 結果だけを見てみれば、こんなにバランスを大きく崩した映画を作るというのは今ま での作品を見ても信じがたい所がありますが、それは監督自ら言っているように、映画 を作りながらその意味を発見してしまった(少なくとも監督自から、キキの黒い服の意 味を作りながら理解した、と言っている)といったところに、鍵があるような気がしま す。 この映画の中盤における演出というのはまさにスケベイの一言に尽きるような印象も あるのですが、これは「スケベイであるのは、こうして映画を見ている、私たち自身で ある」という点に思い至らされる、という意味ではまさに教育的でもあります。 終盤において蹴飛ばされる、我々観客は、むしろそれこそ宮崎駿の誠実さの現れのの 一つだと考えることによって、安堵と共に今までと別の感動を味わうことができるので はないでしょうか。 ISAM