#38 Article 1141 Posted at 1991/04/22 10:45:48 by ASA (MAP2105) [NEKOME]
Subject: 猫目忍法帖(巻二ノ二)
「さて、誰が猫目谷へ行くかだが……どう決める?」
宿の一室。田中守の書状を囲み、三人が座っていた。
「難しい顔で考えることかい、透丸よ。ここは恨みっこなしのくじ引きでいこうじゃ
ねえか。」
よし、と答えて透丸が懐からこよりを三つ取り出した。その一つの端を折り曲げ
て、
「これを引いた者が猫目谷へ行く。いいな?」
と折った端が見えないよう、こよりを握り込む。
お振がうなづいた。
言い出しっぺの七太郎に、もとより異論はない。
「んじゃあ、おいらが一番に引くぜ。」
透丸のこぶしから出たこよりの端を無造作に引き抜くと、
「ちぇっ、またおいらが当たっちまったぜ。そんじゃひとっ走り、行ってくらあ!」
書状をひっつかんで、風のように走り去る。あとにはなぜか沈痛な面持の透丸と
お振が残った。
「修行の成果が全く現われないのよね……。」
お振が呆れたようにつぶやく。
「忍びに生まれたのが不運だった、としか言いようがあるまい。」
透丸が開いた手のひらには、端を折り曲げた二本のこよりがあった。
「こうなっては、玄蕃どのお得意の奇襲も無意味ですわね。」
甲羅一党の隠れ家。お銭という、目も眩むような美女が艶然と笑った。
彼女は左近、豹馬と並ぶ甲羅忍法の遣い手だが、二番隊として逃走経路を確保す
る方にまわっていたので、行列襲撃に参加してはいない。
「……おぬしなら、何とする。」
「明後日の晩、宇佐宮さまをお連れいたします。もっとも、女の細腕一本では少々
荷がこたえます。左近どのに、迎えにきていただきましょう。甲羅忍法乙姫変化の
妙技、とくとご覧なさいませ。」
お銭の会心の笑みは、なぜか玄蕃をぞっとさせた。
書状を懐に収めて、七太郎は一心に走った。
それに加え下忍とはいえ甲羅党をあっさりと倒した剣術、月亀豹馬の忍法風車を
見事に封じた体術――それだけの技を身につけながら、彼猫田七太郎がいつまでたっ
ても一人前の忍びになれないのは、その生まれ持ってのお人よしの故であった。
第一、こうして宇佐宮の遭難に手を出すこと自体が、透丸たちに言わせればいら
ぬお節介だ。忍びにとってもっとも重要なことは剣術でも体術でもなければ、忍法
ですらない。受けた命令は己の身を刻んででも守り抜き、成し遂げる鉄の意志、い
わば心術に他ならない。
一族の頭領猫塚弾正は彼の体術を惜しんで、江戸で実戦修行をさせた。お振と透
丸は一緒に修行していることになっているが、実は七太郎の目付役である。むしろ
他の修行に落第しても、それに気付けばまだ見込みがあると考えてのことだ。
結局七太郎はそれにすら全く気付かなかった。もはやこの上は彼を忍びに仕立て
ることは諦め、一介の郷士として一生を送らせる他はない――それが弾正の結論で
あった。
その七太郎がいま、宇佐宮警護を依頼する田中守の書状を携えて猫目谷へ向かう。
そのいきさつを聞いたら弾正は卒倒しかねない、などとはつゆ思わず。
巻二ノ三へつづく ASA