#34 Article 652 Posted at 1991/04/16 17:15:08 by RAVEN (MAP2299) [NADIA]
Subject: 感動するということ・・(こ・・これは長い・・!)
まず最初に一つ書きます。 言葉というものは、とても扱いが難しいものです。 一つの言葉が、いくつもの意味に取られたり、さらには、他人と自分でとで、 言葉の捉え方が全然違っていたり。 特に、討論の場などでは、よくよく注意して言葉を選び、 慎重に使っていかないと、いつのまにか議論の争点がぼやけ、あるいはすりかわり、 単なる言い争いになってしまいます。 ですから、自分が今、一つの言葉で切り取ったものは何なのか、 (例えば感情であるのか、客観的事象か、あるいは論理的帰結か) 自分はいったいどういう意味でその言葉を使ったのか、さらにはそれが、 容易に相手の誤解を生んでしまうような類の曖昧さを含んではいないか、 十分に見極めてから、使用すべきでありましょう。 特にそれが、何か象徴的な事柄を意味する言葉であれば、なおさらであります。 老婆心までに。 >SAWAさんへ(感動するということ・・) 本当にそれは素敵です。(ナディアを見て)いいなぁと思えることは、 素晴らしいことです。 でもそれが、感動だとはかぎりません。 なぜなら。 “みんなまとめて幸せになる”事を、現実は許してはくれないからです。 いくらその時、いいなぁと思っても、それが、実際に僕らが生きていくうえで、 何らかの影響を及ぼす力(あるいは原動力、分岐点)になるものでなくては、 “感動”と呼ぶことは出来ないと思うのです。 ナディアという作品を見て、生き方が変わったとか、人生の目標を見つけた、 生きる元気が湧いてきたという人がいたならば、 その人にとってこそ、ナディアは“感動”だったのでありましょう。 たとえば、先にあげておられた「王立宇宙軍」で、様々な葛藤、努力、争いののちに、 宇宙から語られた言葉は、“みんなが幸せでありますように”という、 せつない祈りでありました。 これは僕にとってまさに感動でした。 人と人とが争い、結局は分かりあえないという悲しみを越えて、 一つの祈りに到達するとき、人間は崇高であります。 付け加えて言えば、僕一人が幸せになることと、みんなが幸せになることは、 全然別だ、という事です。 現実には、みんなそれぞれ幸せになりたくて、毎日を“戦って”いるのです。 僕がナディアを見る限り、登場人物が、ほとんど具体的には何の努力もしないまま、 偶然と運のみ(つまりは御都合主義)によって、なんとなくガーゴイルを、 倒してしまった、という風に思えるのです。 それではあまりに人間というものを馬鹿にしています。 ハッピーエンドというものは、テキトーに与えられるべきものではありません。 人生を生きる各々が、それぞれの“戦い”の中で、勝ち取っていくべきものです。 ましてや、ナディアは単なるファンタジーではない。 これだけの数の人間が死んでいく物語を作ろうというのです。 最低限作り手が取らなくてはならない責任というものが、 あるのではないでしょうか。 論を続けます。 “感動”とは、気持ちがいいという事とも、面白いということとも、 楽しいということとも、別のレベルに属するもののようです。 もちろん、人間各々の持つ“心”が感動するのですから、 それぞれが育ってきた環境が違い“心”そのものの出来上がり方が違う以上、 感動する対象にも差があるでしょうし、ひょっとすると、 感動する“仕組み”さえも、違っているかも知れません。 でも、江戸や明治生まれの人間ではあるまいし、同じ時代の、日本という小さな国に 生まれ育ったものどうし、多少なりとも分かりあえないはずがあるでしょうか。 思うに、“感動”とは。 ある出来事に出会って、心の中に起こった一つの情動が、 (それが思考という形をとるかどうかに関係無く) その人間が今まで持っていた枠組みを打ち壊し、精神の地平を広げ、心を自由にし、 さらには、新たなるアイデンティティーの核として、人格そのものにも、 影響を与えていくという、いってみれば、 “破壊と構築を含んだ心の再生”ではないでしょうか。 どうも理屈っぽくなっていけませんが、言葉を選んだ結果です。 ご容赦ください。 >感動してる人に どこがぁ と聞いて ここ! と答えては普通くれませんよ 本当にそうなのでしょうか。だとしたら、とても悲しいことです。@一般的にどうなのかということは僕には分かりませんので、 個人的な見解を書きます。 僕はとにかく、自分が何かに感動すると、それをすぐに人に伝えたくて、 たまらなくなるのです。それも“僕が感動したということ”を伝えるだけでは 満足できず、僕が感じた感動そのものを、他人にも伝えたいと、 思ってしまうのです。 (つまりはそれが、僕が物を書く仕事に就いた原因なのでありますが・・) 僕は、自分が感動したことについて、人から聞かれるのが大好きです。 もしその人が、僕と同じものを見て、僕のような感動を覚えなかったのだとしたら、 僕は、全力を傾注して、僕の得た感動をその人に伝えようとし、 さらには、その人と感動を共有しようとするでありましょう。 大事なのは、この“共有”あるいは“わかりあう”という感覚であります。 これはあくまで仮説ですが、わざわざパソ2をはじめて、メイプルのような、 アニメーション専門のネットワークに参加する人には、自分以外のアニメファンと、 何かを共有したくてネットにやってきた人が多いのではないでしょうか。 無論、単にアニメに関する情報交換の場として、ネットという媒体を選んだ人も、 いるとは思いますが、それが全部ではないでしょう。 もし、アニメーション作品に接して得た気持ちを、自分一人のものとして、 それで満足ならば、高い機材を買って、ネット(つまりはコミュニケーションの場) に参加することはないはずです。 例えば、感動ではなく、面白かったということに限ってみても、 友達と二人で何らかの作品を見たときに、 A「面白かったね」 B「うん面白かった」 A・B「よかったよかった・・」 これではなにひとつ分かりあったことになりません。 お互い、どこが面白かったのか、どういうところに興味を惹かれたのか、など、 詳しく話し合ってはじめて、お互いの、作品に対する接し方というのが、 分かるのですし、それなくして、作品について人と語ることは無意味です。 ですから僕は「どこがぁ」と聞いたときに、「うんそれはね・・・」 と答えてくれる人がいることを、このネットの皆さんに求めているのです。 >「おもしろくない」と主張することの方が、相手を説得するのは 難しいとおもいますよ...きっと 僕に関して言えば、“「おもしろくない」と主張して相手を説得しようとしている” わけではないのです。 僕はとにかく、ナディアを面白いと思った人が、どこにどういうふうに惹かれたのかを 知りたいのです。 そしてその考え方が、僕とどう違うのか、なぜその違いが生まれるのかを突き止め、 さらにはその人自身を知ることに繋げていきたいのです。 なぜなら、議論することの目的は、決して相手を理屈でねじ伏せることではなく、 お互いに理解しあうことにあるからです。 言葉というものがコミュニケーションのための道具である以上、 全ての対話は、最終的に、人と人との間の垣根を取り払うために 行なわれるべきであります。 前にも書いたように、言葉というものはまことに難しいものです。 様々な誤解や、対立を生む原因となります。 でも、だからといって黙っていては、結局は誰とも分かりあえず、独りです。 >おちゃさん 期待してくださってありがとう。頑張ります。 でもこういうRESとかしてるとなかなか総論が進められない・・(^_^;) これでも仕事の合間だもんで・・ 確かに、“感動”を分析するのは、確かに精神衛生上よくありませんね、 なぜならそれは同時に、自分の“心”を分析することにもなるからです。 でも、僕みたいな仕事に就いたものにとって、自分の得た感動を、 人に伝えるためには、まず分析してみる必要があるのですよ。 全く因果な商売です。(;_;) それから確かに、「支離滅裂で面白い」というのは僕には理解できませんが、 “感動”するほど支離滅裂なのであれば、それは何らかの形で、 僕にも伝わるかもしれませんよ! (僕はけっこう荒唐無稽なものは好きですし、スラップティックの大ファンです) ほんとに長々と書いてしまいました。 ちょっと疲れぎみ・・・ 結城 二十六 確かに、ネットで議論するのは歯痒いです。 OFFで髓シに話したほうが全然手っ取り早いでしょうね。