#22 Article 2331 Posted at 1994/09/26 22:58:24 by ISAM (MAP1129) [USHIRO]

Subject: Re:*38 うしろの正面だあれ /2330 ........... /3185(#20) /3176(#20)

つづき(笑)。

 手塚治虫発言の引用にまで話を戻してみよう。
 手塚はゆーさく氏にとって、心の師でもあるようなのでその言葉を字義通りそのまま
うけ入れることは当然のことではあるだろう。
 しかし他者である我々にとってはそうではない。
 これは別に特別な意味があるわけではない、当然の事実だ。
 が、ここで問題にしたいのは厳然としたことではなく前述の師弟に関係に関する事柄
だ、それについては後述する。
 ここで、善意なき論者である僕は、人の庭なんかにもずかずか入り込んでしまうのだ
が、ゆーさくせんせいはそういう方向には、ある程度覚悟をきめている旨を書き込まれ
ているので、それに乗じてガバガバ書いてしまおう。
 ま、たかがネットの書き込み。たかが、口数の多いだけのあほうの書き込みというこ
とで誰も気にしないだろうという読みもあってのことであるが。

 ところで、ゆーさく氏の最初の最初の書き込みを読めば誰でも気がつくことだが、そ
の論拠も展開も、たいへん稚拙である。まあネットの書き込みなんてたいてい稚拙な文
章でたいした意味もないから(俺のもだ)、普通ならそのまま読み飛ばされるところだ
ろうが、HIDE氏という触媒によって、それが再読され再評価されることによって、
そこに横たわっている問題についても露になってしまった。
 それは手塚が、作家は作家でしかなく評論家ではないと言った言葉に通底する部分が
ある。もちろん手塚のこの発言が、ある種のコンプレックスからはっされているという
可能性はあるが(話の前後関係がわからないからなおさらだが、むしろそうだからこそ
、それが引用されて文脈の中で考えれば)、逆にもっと主体的な危機感といったものに
置き換えて考えることによって、普遍化させることもできるだろう。

 ゆーさく氏の文脈の中で「うしろの正面だあれ」は素材として実利的な方法によって
(ここで、仮にこれをプラグマティックとでも呼ぶ)弄ばれている。
 ここでプラグマティックなのは、実利的だが無根拠な方法が行使され、作品の意図は
考えられる前に、戦争の悲惨さ云々といったことに決めつけられてしまっていることだ
。つまり、これは直接的な創作だ。
 パロディーでもパステーシュでもオマージュでもいいが、原典の意味というのは解体
されてしまっている。
 むろん、そのようなことはいっこうに構わないことであるとは前々から僕自身も宣言
しているし、どうとも思わないことも事実だが、たぶんそれが評論として受け取られる
、又は、発進者が評論と勘違いして発するときに、そこに手塚がいう危機の可能性が生
じる。
 ゆーさく氏の評が稚拙だといったが、それは評論の方法として稚拙なのだ。むろん僕
も含めて、この場に評論の訓練を受けた(又はおこなった)人間がいるとは思えないか
ら、誰がやってもそうなるかもしれないしいたしかたないかもしれないが、ゆーさく氏
のそれにある問題は、氏はそれを自身の創作に関するプラグマティックな方法、信念と
と相通じる部分で表明してしまっているということだ。
 特に、実利的な信念であるところが決定的だろう。
 少なくとも、このネットにおいてアニメが構造的に評されたことはない――もちろん
、構造によって評すという事柄自身に対しての問題もあるだろうがそれは、おいててだ
。むしろ常にプラグマティックな側面がある。
 ここでのプラグマティックは、何度も言うように創造のための実利的方法であり、そ
れは無根拠に提示される。
 無根拠であるから、それを正しい間違っていると判断するのはある手段をとらなけれ
ばならない。
 例えば、氏がエトス、パトスだかといった恣意的な分節によって感動を分ければ、少
なくとも僕たちは苦笑いするしかない(同様のことは、あさりよしとうの「重箱の隅」
にもいえるかもしれないがここではいわない)。
 それは、ゆーさく氏が自身の創作のプラグマティックな方法によって作品なり事物な
りを再創作しているのであって、その方法を評するというのは、つきつめていえば、氏
の創作態度、方法によって作りだされる氏の作品全般を評しなければならなく、なる可
能性もあるから、氏自身の言葉を借りれば「お目こぼし」、我々にとってみれば人の人
生にそこまで踏込むのはうざったいという気持ちによって苦笑いにしかならないのだ。
 創作に対する方法というのも結局のところ、その人の一生でもってあがなうことによ
って、またはそういう事実によって、根拠が示されているにすぎないからだ。
 しかし、このことが手塚の危惧だとは思わない。

 まあ、このようにして「せんせい」というものが文脈上に登場する。

 では、手塚の危機感とは何か?(いやここまで、勝手に進めると俺の危機感か)。
 つまり物語の創作ではなく、その解体(評論)というまったく異なった分野を行き来
するうちに、評論のための受け身な煮え切らない方法が、物語を創造する力強い方法を
浸食していってしまうのではないかという、恐怖だ。
 氏の「戦争はもっと厳しく汚く恐ろしいもので、それを描かない創作は駄目だ」とい
った主張は、実は氏自身の創作に関するドラマチックジャスティス(劇的正義)なので
あり、でしかないというよりも、氏の作品を愛する人間にとってはかけがえのないもの
であろう。
 が、「うしろの正面だあれ」の作品論としてそれを展開すれば、決定的な反論によっ
て氏自身の方法がねじまがる可能性さえあるのだ。だから普通は、(少なくとも俺は)
苦笑いする。
 これが手塚の忠告ではないだろうか?
 僕はゆーさく氏のように、

>本来ならば、物創りをする、またはそうすると決めているヒトは自分の作品にも
>責任を取れるまでは他者の作品に対して一切口を出すべきではない、

 などとは絶対考えないし、例えば手塚なら(アッマタヒトノセイニシテル・・・)責任を取れようが取
れまいが発言すべきではないと言うのではないか?
 結論づければ、ゆーさく氏は「うしろの正面だあれ」について語るべきではない。
 仮に、手塚の言葉に対する解釈が、俺のたんなる思い込みだとしても、手塚自身の言
葉としては、それは事実そこにある。
 正直にいおう、俺が百の言葉を並べても、この解釈は無根拠だ。
 手塚治虫自身の言葉も無根拠だと思う。
 しかし、手塚を師と仰ぐならば、手塚は「せんせい」ではなく厳然たる「先生」なの
だ。
 創作の方法というのは基本的には無根拠である。
 いや、つきつめれば事物と言うのは最終的に無根拠性につきあたる(コレガキンダイノキキナノカ
イナ)。
 よって、それは根拠ではなく実利性によって判断されるべきだろう。
 何度もいうようだが、ここではこれをプラグマティズムとでもよぶ。
 しかし、そういった方法を我々は徹底的に貫き通すことができない。
 適当にハリウッドイズムに染っているだけの我々では、彼らのように徹底的にそれを
貫きとおすことなどできず、かれが作りだした方法の一部を聞きかじりつごうのいいと
きに、ごひろうしてみせるのがせきのやまである。
 つまり、個人による創作の可能性は甚だ薄い。
 ゆえに、師弟関係というのだ。師はその関係の枠内では決して間違えない。また無根
拠性の根拠を与える必要性も生じない。
 つまり手塚はこの場合、神に等しいことは事実だ。

 だから語るのをやめるべきだ。

 もう一つは、師(神)への反抗という人生の劇的側面として覚悟をきめて、とことん
やってみること(笑)。

 もう一つは、そういやあ俺には師なんかいなかったあれは間違いだったと思い直すこ
と(大笑)。

 もう一つは、”傷をなめあうどーけしばい”で、個人論みたいな、百万の筆者が、
一千万回繰り返しているようないーかげん枯れた理屈を振り回して、百万一人目とし
て、花々しく一千万一回目の議論が全然噛み合わなくて、どっかんするけど、まあ、
お互いたいした怪我がなくてよかったね、と終わらせる(チョットゲッソリ)。

 と善意がない人間はここまで書く!


                                ISAM