#210 Article 14485 Posted at 2000/01/14 06:51:50 by 高木志郎アオ (MAP3887) [TSUBURAYA]

Subject: Re:*15 20世紀 /14484 ..... /14463 /14452

円谷英二が特殊技術に本格的に関わるようになったのは、1937(昭和12)年、
京都JOスタジオから東宝東京撮影所特殊技術課長に転勤した頃からである。
『ハワイ・マレー沖海戦』(1942)では大規模なミニチュアワークによる真珠湾
攻撃のシーンでその名を高めた。
 しかし円谷の名声は1945年の敗戦で戦争協力者の汚名に変わり、1948年公職
追放指定を受け、東宝撮影所を退社した。円谷は円谷特殊技術研究所を主宰、
『透明人間現わる』(大映1949)など各社の特撮を請け負った。1950年、円谷は
嘱託のような形で東宝に復帰。1952年には正式に復帰し『太平洋の鷲』(1953)
などの特撮を行なった。
 この頃、円谷英二の脳裏には巨大なタコが人類を襲うという特撮映画の構想
が芽生えていた。『キングコング』に自分なりの方法で挑戦するのは、円谷の
長年の夢だったが、日本映画の常識を逸脱した企画で会社側に一笑に付される
危惧もあり、彼自身の口からはその企画案は出されぬままだった。

 1954年3月1日、アメリカはマーシャル諸島ビキニ環礁で水爆実験を行ない
静岡県焼津のマグロ漁船第五福竜丸が死の灰をかぶった。

 1953年秋から海外合作映画を推進していた東宝プロデューサー田中友幸は、
'54年春クランク・イン直前になって製作中止の憂き目にあい、急遽代替企画
を考える必要に迫られた。田中は、社会問題となっていたビキニの水爆実験と
アメリカ映画『原子怪獣現わる』(1953)にヒントを得て海底に眠っていた太古
の恐竜が水爆実験で眠りをさまされ、東京を襲うというストーリーを考えて、
『海底二万哩から来た大怪獣』として企画を森岩雄製作本部長に提出した。
 この企画はすぐ森の承認を得て特撮を円谷に依頼した。同様の企画を温めて
いた円谷が承諾したのは当然である。監督は『太平洋の鷲』で円谷とコンビを
組んだ本多猪四郎。企画はgiantの頭文字をとって『G作品』と呼ばれた。

 こうして製作された映画『ゴジラ』は、1954(昭和29)年11月3日封切られ、
大ヒットした。

 私が『ゴジラ』をちゃんと見たのは、ずいぶん後にビデオになってからです
けど、やはり名作だと思います。『ゴジラ』に関しては言い尽くされてる気も
するけど、怪獣映画の原点にして頂点って感じかな。
『ゴジラ2000ミレニアム』では作品の出来は今一歩でしたが、科学者役の佐野史郎
が志村喬の演技を模倣してたり、第1作を意識して面白い怪獣映画にしようと
している気持ちはよくわかったので、これからも東宝にはがんばって欲しいと
思います。
                        21世紀まで、あと353日   高木志郎アオ