#189 Article 1401 Posted at 1996/04/16 09:06:28 by TOSHI (MAP2425) [NAZO]

Subject: Re:*5 りりかの謎? (Re: 新世紀エヴァンゲリオンの謎) /1399 ..... /2811(#194) /2741(#194)

> 「救世主譚を、確かな技量による演出で作品を作った」というのだけでは
>TOSHIさんは不満なようですが、なぜ、それだけではいけないのでしょう?

  ひとつは、それは物語の枠組であって、「物語」ではないと思うからです。
  作り手のなかに語るべき何ががあって、それが「物語」られるから
  「物語」ではないか、と思うのです(粗雑ないい方ですが)。

  食べ物に例えるのはあまり好きではありませんが、
  「お菓子」を目指す人は職人であってクリエイターではないでしょう。
  もちろん僕は「お菓子」だって評価はしますが、価値は見いだせません。
  そして「りりか」はけしてお菓子を目指したわけではないと思うのです。

  もうひとつは「語るべきもの」が自分の中にない(あるいは見失っている)
  ために、「作品」がゆがんでいると思われるところが散見されるからです。

  例えばラス前での「君は死ぬんだ」という運命論的なセリフが、最終回では
  いきなり「死んでくれ」と決断をせまるセリフにすり替えられてしまいます。
  これはちょっと信じ難いプロット変更です。結果、話の意味も変わってしまい、
  りりかにとって大切なはずの加納先輩も、ただのヤな奴になってしまいました。
  あるいは、脚本家の山口宏氏が傑作と語る「バレンタイン」のエピソードも、
  ダークジョーカーとりりかが戦う意味がまったくないどころか、
  枠組のために「語るべきこと」が崩壊している典型になっています。

  もちろん、どんなTVシリーズだって、いわゆる「捨て」回はあるわけですが、
  なまじ演出力のある(他の人が傑作とまでいう)回に限って、
  こうしたプロット崩壊が目立つように思えるのは、どうしてなんでしょう?
  そんな疑問に対する一番シンプルな(外的要因を考えない)答えは、
  「演出力」と「創作力」のアンバランスにあるのではないか、と思うんです。
   TOSHI