#139 Article 147 Posted at 1993/11/13 19:04:50 by ISAM (MAP1129) [MEDIA]

Subject: Re:*32 リトルツインズ /146 .......... /686(#15) /685(#15)

「ディベート」「言葉遊び」「勝つためだけの議論」をなさりたいのなら、おつきあ
いは辞退させていただきたいのですけれど。
 もしくは、無意識のうちにそうなってしまうというなら、意識的に修正していただき
たいですね。個人的には、そういった態度は主題に対する求心的な欲求の欠如というこ
とであまりいい印象をもちませんし、快く思えないのです。

 このネット内において議論が交わされるときに、すくなくとも前提になっているのは
「アニメーション中心」の考え方でしょう。
 「作品中心主義」でもいいかもしれません。
 しかしTOSHIさんの話を読んでいて感じたのは、非常に自己中心的なことですね。
 たとえば作品に対するアプローチであっても、すぐに単語や簡単な文章に意味を還元
してしまい、自己の範囲内に取込んでしまおうとされているように感じられます。
 作品に対してなど言及していないし、それをどうこうするつもりもないなどとおっし
ゃられるなら、話は別です。
 私は、はっきりいって「作品」がかかわってない議論に関して、このネット上におい
ては労力をさくつもりはありません。
 その場合は、この書込みにて私の発言は終了させていただきます。
 後は、続けられるなりやめるなりはご勝手にどうぞ。

 TOSHIさんに関しては、昔から、厳密な議論を要求している割には、直接引用(つま
り>を使って、相手の文章から直接引いてくるやつajを多用されるので非常に奇妙に
思っていたのですが、なとなくそのからくりヘわかってきたよう気がします。
 一つの文章でさえ流れがあるのに、こうした長々と続いた論議のなかのある恣意的な
選択による相手側の一文を引いてきて、全体を代表させようなどというのはその論理か
らしてすでに、元々の発言者ではなく引用者側の恣意性なのです。
 しかもそれは、自己の主張であるにもかかわらず、まるで相手側の責任を利用できて
しまうかのように、主張というものに当然つきものの責任を空洞化できるわけです。

 ああ、なんで説教臭いことを書かなければならないのだろう・・・



 どっひゃぁ~


 は私が感じたことでもあります。
 「もちろんナティアボードなんて最初っからひきずってない」人と話していたなんて
、相手の問にナディアボードの過去のアーティクルを参照すればなどとせっかくこたえ
ているのに、その答えははなから無視されていたなんて。
 平気でどんどん議論の方向や、過去の発言をねじまげていってしまうなんて。

 正直いって私は、信じられないという思いにかられているのです。

 万が一、TOSHIさんが本当に話の流れをご存じないといけないので、説明させていた
だきますが(むろん、これは私の側の視点からの要約であります。また、こういう発言
を事前にさせていただく以上私の解釈的なものをいれさせていただきます)、元々、こ
の話はリトル・ツインズというアニメに対する感想から始まっていますし、私の中では
いまだにそこに拠る部分が多いのです。
 この論議は、#15ボードから始まっています。


 最初の私の、発言はリトルツインズは素朴で淡々とした効果を狙ったアニメのようだ
が面白くない。素朴で淡々などというものはそれだけでは善とはいえない。
 それに対してMUK氏がそこから、「面白い」イコール善という構図を読み取り、ゆが
んでいると批判されてスタートしたのです。

 次にMUK氏はArticle 694で「面白さ」は「血肉になる」とはかぎらないし、「底が浅
い」ものが最近多いといった発言をされて、「面白さ」を「女の子がかわいい」に言い
換えてもいいとおっしゃられています。
 まず、ここが論議の中心の一つでしょう。
 で、Article 695でそれに対する私の反論は「血肉になる」「底が深い」「感動する」などいうほうがよっぽど耳障りであるというものです。
 ここで対立する意見が出て話がスタートします。

 以降話は#139ボードにうつるわけですが(MUK氏がうつした)。
 ここでMUK氏は、「面白い」だけで中身の薄い作品ばかりが世間に蔓延しそうでよく
ない、エンターテイメントといえども自分に残るなにか(血肉)があってこそであると
主張されていますが。
 そこで、私は「面白い」のと「面白いだけで中身が薄い作品」を関連ずける論理に
無理があるという反論をしましたがレスがつかず、この話題は事実上ここで終了してし
まいました。
 以降の、この話に関しては大きな進展はありません(中心人物が発言しませんから
)。


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 では、結論づけていきましょう。
 #139Article 144,146におけるTOSHIさんの発言が根本的におかしいと思われるのは、
MUK氏は「感動」などという言葉はつかわれていないことです。
 ゆえに、TOSHIさんとMUK氏が連名で「広義の感動」を主張しているというは完全な
間違いなのです。
 ではMUK氏の「血肉」と「感動」ほ結びつけているのは何でしょう。
 それは私です。
 つまり無理に意味を結びつけることによって別のある意義をもたせようとしているの
です。
 よって、この議論における「感動」を狭い意味の感動であると主張する主体性は私の
あると信じます。
 またTOSHIさんのいう「感動を広い意味でとらえてほしい」という願いは議論の進行
上却下させていただきます。
 なぜなら、
 「それは可能であるし、そういった感動を認めるのに吝かではありません」という発
言をしただけで、「ISAMは感動を誤解していた」などとかきたてられるからです(^^メ)。
 むしろ、ISAMは論議の前提となるべき単語の適応範囲の表明を怠ったという批判なら
うけるつもりですが。
 すでに議論は進み、単語の適応範囲は表明されてしまいました。
 よって、TOSHIさんの「ISAMは感動を誤解していた」という発言には訂正を求めさせ
ていただきます。

 では、なぜそういった狭い「感動」を問題にするのでしょう。
 それは、すでにあげさせていただいたようにナディアボードにおける過去の議論が
あるからです。
 また、MUK氏による「血肉になるものが必要」発言に同様の匂をかぎとるからです。
 彼は批判されるべき「面白さ」は「女の子がかわいい」と等価と考えてもよいといっ
たことを発言されています。
 しかし、広義の感動には「女の子がかわいくて感動」も含まれてしまいます。
 ゆえにTOSHIさんの、広い意味での感動が初期から議論の基調にあるかのごとき発言
は明らかにおかしいですね。

 「血肉になる感動」などというものも狭い意味の感動であることはたしかでしょう。
 血肉などという偽善的な甘い言葉が嘘の中心ですね。
 感動というのは、人間に害悪を与えるものでもあるのです。
 また単に、何の役にもたたないものでもあったりするのです。
 むろん本当に血肉になるときもあるかもしれませんが。

 感動に関して例にあげたものは無害すぎるからというので、全体主義とか差別とか暴
力というのをあげたら(例えば、ヒットラーのパレードでハイルとかいって手を上げる
人達。あの人達みんな感動してるのよ)、TOSHIさんはそれをまんま引用して、僕が無
害すぎるからといった、ミラクル☆ガールズの1話、2001年、バルキリーの変形、
MENUといったものの自体を下に並べて、それらが血肉になる感動とか書いてしまい
ます。

 むちゃくちゃですねもう・・・げっそり。


                              ISAM