#38 Article 1273 Posted at 1991/06/07 12:04:54 by ASA (MAP2105) [NEKOME]
Subject: 猫目忍法帖(巻三ノ四)
しまった! 左近の一瞬の虚を、巳右衛門は逃さなかった。松の木の幹を蹴って
飛び、両腕のない左近を襲う。
「忍法腕蜻蛉、敗れたり!」
「!」
激突! だが、もんどりうって地に転がったのは、巳右衛門の方だった。
しばらくたって、常人には見通すことも能わぬ闇の中で左近がつぶやいた。
「驚かせおって、若造が――。」
両腕のない彼は、いったいどうやって巳右衛門を倒したのか――?
すでに内記の知らせで、猫川五遁斎と猫山力十郎が寝所を囲んでいた。いつ曲者
がやって来ても対応できる万全の構えだ。
と、急に門のあたりで悲鳴が起った。続いて、
「出合え! 出合え!」
警護の侍たちである。果して、何事か? 耳を澄ますと、
「乱心者じゃ!」
――門の前には門番たちが一刀で斬り下げられて呻いていた。斬ったのはお銭の
忍法乙姫変化にかかった侍、猪上陣太夫である。
油に塗れた刀を下げて幽鬼のように歩むその目は、どろんと濁っている。しかも
彼自身、既に数ヶ所に深傷を受けながら、ふらりともしないどころか、薄笑いを浮
かべ続けている。
そのあまりの凄じさに、集まった侍たちももはやなすすべもなく突っ立っている
だけだ。
彼は正確に宇佐宮の隠し寝所へ近づいてくる。透丸とお振は危険を感じ、宇佐宮
と松川を逃がしていた。
「狼藉者が参ります。早くあちらへ!」
お銭の松川は心中にほくそ笑んだ。
「宇佐宮さま、参りましょう。」
だが、寝入りばなを起こされてきょとんとしている宇佐宮の手を引いて部屋を
出た松川は、陣太夫と鉢合せした。
陣太夫は食らい付かんばかりの勢いで松川に襲いかかった。
悲鳴を上げて倒れた松川の前に透丸は割って入り、間髪を入れず唐傘を陣太夫の
鼻先に投げつける。
投げたときの安定のために鉛を仕込んだ傘である。並の人間ならひとたまりも無
く昏倒するところだが、陣太夫は刀を取り落としただけで悠然と立ち直った。
「こいつは僕が引き受ける。お振、宇佐宮さまたちを早く!」
透丸は、逃げるお振たちのあとを追いかけようとする陣太夫に斬りつけた。
しかし右腕を斬り落されて、なお陣太夫は笑い続ける。そればかりか、左手で透
丸の首を鷲づかみにすると、体ごとぐいと持ち上げた。
「ぐっ……。」
もがく透丸の足元に陣太夫の顔があった。もうろうとする意識の中で、目の玉め
がけて蹴りつけると、さすがの陣太夫もたまらず透丸の体を取り落とした。
それでもなお陣太夫が白痴のように笑うのを見て、透丸は総毛立った。
「こやつ――阿片を嗅がされているな?」
陣太夫は、透丸のことなど忘れたように再び宇佐宮たちの去ったあとを追い始め
た。
阿片で正気を失い、目までつぶされた彼がなぜ宇佐宮を追いかけることができる
のか? 口で喘いでいてもわかる強い香の匂い――これだ! 寝所を移したときに、
まず松川の方が香を焚いたのだ。
となると松川の方こそは――。
「しまった!」
透丸は唐傘を拾い上げると、走り出すなり陣太夫に投げつける――忍法唐傘返し、
陣太夫の首を刎ねて戻る必殺の唐傘をつかむと、お振たちのあとを追いかけた。
巻四ノ一につづく ASA
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