#38 Article 1267 Posted at 1991/06/04 10:42:36 by ASA (MAP2105) [NEKOME]

Subject: 猫目忍法帖(巻三ノ三)

そして、夜がきた。見張りは、本陣の屋根の上で気配を隠している猫村巳右衛門
と、宇佐宮の寝所であった部屋に潜んでいる猫飼内記。
 交替で番をしている侍たちが物の役には立たないとすると、これは少ないようだ
がそうではない。すでに本陣の周囲の要所要所に猫のひげをつなぎ合わせた目に見
えぬ程細い糸が張り巡らされている。この糸が、どんなわずかな振動をも伝えてく
るため、巳右衛門は居ながらにして本陣の周囲をくまなく見通せるのだ。
 その巳右衛門が、糸の先に微妙なふるえを感じた。何者かが忍び込んだ気配だ。
 (来たな……。)
 糸のふるえを読んで、位置の見当をつける。
 (どうやらおいでなさったようでござるぞ。まず拙者がしゃっ面を拝んでくれる。)
 鈴こだまで内記にそう伝えると、巳右衛門は屋根の上を音もなく走った。
 研ぎ澄まされた視覚で闇の中の相手を見つけ、巳右衛門はその身を宙に踊らせた。
ただ飛び下りたのではない。庇を蹴った瞬間、巳右衛門の体は地面と水平になり、
むささびのように曲者目がけて飛んで行ったのだ。
 「!?」
 曲者――亀口左近が気付いて目を剥いた。巳右衛門は既に苦無(クナイ)を両手に握っ
ている。通り過ぎざまに喉首をかき切るつもりだ。
 「猫目忍法むささび返し!」
 しかし左近は、とっさに背中に背負った弓を抜いた。いや、弓ではない。握りか
ら上下に弓そっくりに張り出しているのは、夜目にも輝く白刃だ。
 この独特の剣を地面と水平に構え、飛んでくる巳右衛門に向けた左近の腕は、付
け根から離れてまっすぐに飛び出した!
 「!」
 巳右衛門はからくもかわしたが、バランスを崩してあわてて着地した。
 弾かれた左近の右腕は、これまたむささびのように大きく弧を描いて背後から巳
右衛門に襲いかかった。しかも、間髪を入れず左腕も宙へ飛んだ。
 「甲羅忍法腕蜻蛉(カイナトンボ)、いつまでもかわせると思うなよ!」
 離れた腕が音もなく空を切る様を蜻蛉に例えたのか、猫目のむささびとと甲羅の
蜻蛉の音もなき死闘――前後左右からの攻撃に巳右衛門は防戦一方であった。左近
は涼しい顔すらしてそれを眺めている。
 まろびつつ空飛ぶ腕の攻撃をかわすうちに、少しずつ巳右衛門は左近から離れて
行く。
 ――亀口左近はいかなる方法を以て体から離れた腕を動かすのか。海外でもよう
やくマルコーニ電信機が発明されたばかりで、ラジオコントロールという言葉もな
かったこの時代に、彼は脳(CPU)から発する微弱な電波でおのれの腕を操っていた
のだ。
 とはいえ、彼自身はおのれの腕が飛ぶ原理を知らない。脳波の存在が一般に認め
られたのは二十世紀に入ってからである。が、血を吐く思いで身につけた忍法は強
力だ。
 巳右衛門は右へ転がると見せて大きく後ろへ跳んだ。それを追って、左近の両腕
が速度を上げる。
 「ばかめ、逃げられんぞ!」
 左近が勝ちを確信してつぶやいた。巳右衛門が着地する瞬間、彼の両剣はその首
を薙ぎ切るだろう。
 だが、巳右衛門の体は宙で止まった。庭の松の枝を、両手でつかんで体を支えた
のだ。一瞬遅れて、そのすぐ下に二本の両剣が食い込んだ。
 腕を「飛行」させるために独特の反りを与えられたこの刀は、しかしその反りの
ために相手を「薙ぎ切る」ことはできるが「押し切る」ことはできない。しかも太
い松である。刀から手を離せば這いずることしかできない――二本の腕は、にっち
もさっちもいかなくなった。

                                                巻三ノ四につづく ASA