#38 Article 1253 Posted at 1991/05/30 16:49:12 by ASA (MAP2105) [NEKOME]
Subject: 猫目忍法帖(巻三ノ二)
すでに太田の宿に進んだ本陣で、四人衆は田中守に引き合わされ、宇佐宮さまを
お守りすべし、と沙汰を受けた。だが、そこで猫川五遁斎が言い出したことは、田
中守を唖然とさせた。
「宇佐宮さまの御寝所をお移し申し上げよとな?」
田中守は渋く唸った。五遁斎は続けて、
「は、それも出来うる限り目だたぬように――宮さまにはご不便でござりましょう
が、あの御寝所は目だちすぎますれば。」
「委細もっともではあるが――宇佐宮さまがなんと申されるか――。」
江戸は東夷のすむ国だと降嫁を嫌った宇佐宮が、真っ先に着けた注文は「万事京
風」であった。そのためにこそこうして御所風の寝所をわざわざ作らせたのだが――。
「それが向こうの狙いでもあり、こっちのつけ目でござりまする。くせ者は間違い
なく御所風の寝所を狙って参るでありましょう。そこに宇佐宮さまがおわさねば、
きゃつらがいくら苦労して忍び込んでもまったくの無駄骨。そこで我らがきゃつら
を一網打尽にいたしますれば、あとには何の憂いも残りませぬ。」
「相判った。宇佐宮さまには、わしからお頼み申し上げる。そちらは、確かにくせ
者めらを退治いたせ。」
田中守からこの話を聞いて、一番驚倒したのはお銭――いや、彼女は夕べの内に
陣太夫から、宇佐宮お付きの貂型アニマロイド、松川の方に乗り移っている――で
あったろう。
これでは寝所に左近を忍ばせて、宇佐宮を奪わせる計画が大幅に狂う。
「なりませぬ。」
とっさに彼女は言い切った。もっとも、怪しまれる心配はない。宇佐宮本人がこ
れには一番反対するはずであった。
「そこを曲げてお頼み申し上げる。犬山田中守、この道中を無事におさめる大役を
仰せつかっておりますれば、万が一にも宇佐宮さまに危難が及ばぬようにする義務
がござる。」
「宇佐宮さまはそちらの指図は受けぬ。下がりゃ。」
これ以上食い下がってはこれまい、とお銭が内心でにんまりしたとき、それまで
御簾の向こうで沈黙を守っていた宇佐宮が口を開いた。
「田中守。猫目谷より新しく参った四人と申したな。はじめの三人はいかがした?」
「は、引き続き交代で宇佐宮さまをお守りいたしまする。」
「ふむ……。」
宇佐宮が考え込む。
「決めた。田中守の申す通りにしようぞ。」
「宇佐宮さま!」
お銭の松川が慌てる。
「わらわがかまわぬと申しておる。」
「しかし……。」
「くどいぞよ、松川。決めたと言ったら、決めたのじゃ。」
松川は押し黙った。
「田中守、この通りじゃ。供は松川一人でよい。猫目の衆に、しっかり頼むと伝え
てたも。」
「もったいのうござりまする。」
難題が思いの外簡単に片付いて、田中守は安堵して退出した。もしこのとき松川
の表情をよく見ていれば、こころなしか彼女の顔色が蒼くなっていたのに気づいた
だろうが……。
彼女にとっては、単に宇佐宮の寝所が移っただけではすまない。供まで命ぜられ
ては、左近にこのことを知らせる暇もなくなるのだ。
三ノ三につづく ASA