#38 Article 1242 Posted at 1991/05/27 15:45:47 by ASA (MAP2105) [NEKOME]
Subject: 猫目忍法帖(巻三ノ一)
七太郎が落し戸の蓋のすぐ下の壁に張り付いてから、もう何刻ほど経ったろうか。
まもなく日が登るに違いない、と勘が告げていた。
彼は、外に声がまったく通らないのに気づいて二刻ほど眠った後、すぐに懐から
出した忍び鈎で壁を伝い、ここまで登ってきたのである。
いずれ弾正がここをあけるだろう。そのときをすかさずここを飛び出す構えであ
る。
じっと待っていると、宇佐宮さまのことが思い出される。思えば街道で遠目から
一目彼女を見て以来、彼はまったく、他のことが目に入らなくなっていた。
彼女を護るためなら、何だってする――現に勝手な行動を取ったと弾正には叱責
され、その弾正に刃を向けてでもここを出る覚悟だって決めている。
そうして旅が無事に終った結果、宇佐宮が自ら望まぬ婚姻の席に引き出される矛
盾に彼は気付いていない――。
外に誰かの気配を感じて、七太郎ははっと我に還った。道中差を静かに抜いて、
七太郎は息を潜めた。蓋が開いた一瞬が勝負だ。
ぱたんと内側に開いた戸が、彼の顔をしたたか打った。思わず手を放してしまい、
七太郎は、そのまま下までドスンと落ちた。
「……なにやってるんですか、七太郎さん……。」
「お珠! ここのことを知ってたのか!?」
弾正はお珠に知れぬようこの戸を閉めていたのに、なぜ? その疑問に、お玉は
平然と答えた。
「あたしだって猫目谷の忍びです。」
忍者の家では家族にも気は抜けない。
「さあ、おじいさまが起きてこないうちに行きましょう。」
「行きましょうって、おめえ、まさか……。」
「この大事に透丸さまだけに苦労はさせられません。」
そう弾正に頼んで退けられた彼女は、自分を連れていくことを条件に七太郎をこ
こから出そう、というのだ。
「いやならいいです。人を呼びますから。」
「わっわっ、待て! わかったよ、連れてってやるから出してくれ!」
「素直でよろしい。」
にっこりと笑って、お珠は縄梯子を降ろした。するすると上がってきた七太郎に、
「準備はできてます。さ、行きましょ。」
「待った。道中差が駄目になっちまった。」
さっき落ちたときの衝撃で、刀が曲がってしまったのだ。
「かわりがいるな……そうだ、こいつなら申し分ねえ。」
そう言って七太郎は、床の間の刀掛けから将正を取り上げた。
「あっ、それは……。」
「固いこと言うなって。刀がなくちゃ行ったって何もできねえからな。」
そう言って、無造作にすらりと抜き放つ。
七太郎の目が丸くなった。
「こいつは、すげえ……。」
息を吐くように、つぶやく。
戦国期の刀工将正の一振りは、近年の三百年の太平の果てに見てくればかりきら
びやかになった駄刀とは一味も二味も違う深みを持っていた。
将正の銘刀はその鋭い切れ味と、一度ならず徳川家に不幸をもたらした故事から、
妖刀との評判を受けたが、この一振りは公武合体にどのような影響を及ぼすのか。
三ノ二につづく ASA