#38 Article 1172 Posted at 1991/04/27 22:16:08 by ASA (MAP2105) [NEKOME]

Subject: 猫目忍法帖(巻二ノ四)

「うわっ!」
 泡を食った七太郎は、そのまま下までドスンと落ちた。深さは三間もあろうか、
底に藁山が積まれていなければ、無事には済まなかったろう。
 落し戸をのぞき込んだ弾正の顔が小さく見える。七太郎は食ってかかった。
 「弾正さま! どういうこってすかい!?」
 「名誉な仕事を承ったのはおぬしの手柄じゃが、掟は掟。勝手な振舞をした咎を見
逃すわけにはゆかぬ。この一件が落着するまで、そこで頭を冷やしておれ!」
 弾正が、別人のように厳しい口調でそれだけ言ったとき、
 「おじいさま、皆さんを呼んできました。」
 と声がした。お珠だ。
 「おいお珠、弾正さまに何とか言ってくれ! ……。」
 七太郎は力の限りわめいたが、弾正が落し戸の蓋を閉めると、その声はぱたりと
聞こえなくなった。
 「あら、七太郎さんは?」
 座敷に戻ったお珠が尋ねたのに、弾正はひょうひょうと答えた。
 「おお、相変わらずの鉄砲玉でな。話が済むと茶も飲まずに出て行きおったわい。」

 ほどなく、弾正の命を受けた猫目谷四人衆――猫川五遁斎(ゴトンサイ)、猫村巳右衛
門、猫山力十郎、猫飼内記は猫目谷を発った。弾正から四人衆と呼ばれるだけあっ
て、猫目谷でも一二を争う手練れの忍びたちである。
 「七太郎には悪いが、腕が鳴るわ!」
 感にたえずこう言ったのは巨漢の猫山力十郎。背中の大包みをものともしない怪
力の持ち主だ。
 「急げ! 甲羅党に先を越されてはわが猫目谷の名折れ。」
 浮かれる力十郎をたしなめたのは、リーダー格の猫川五遁斎。
 「なんの、甲羅の木っ端忍者何するものぞ!」
 四人のうちで一番若い猫村巳右衛門が気を吐くと、
 「文字通り、手も足も出んようにしてくれようぞ。」
 猫飼内記がしゃれる。四人はどっと笑って、山道を下って行った。

 同じ頃、鵜沼の宿のとある宿屋で。
 「女はまだか!」
 あんどん一つの暗がりから、男のダミ声が響く。宇佐宮警護隊の猪上陣太夫とい
う侍である。
 陣太夫は、昼間の襲撃で甲羅党の下忍に斬られかけた。死の恐怖から危うく逃れ
て、思ったことは女を抱きたいということだけだった。
 襖をすっと開けて、なまめかしい声がした。
 「遅くなりました……。」
 「おお、ようきたな。」
 陣太夫は、部屋に入った女を荒々しく夜具に引っ張り込んだが、いざ上にのしか
かってみて、怪訝な面もちになった。
 「カメか。甲羅が邪魔だな。」
 女はにんまりと淫蕩に笑って、半身を起こした。甲羅党の紅一点・お銭である。
 「お侍さま……わたしが上になりますわ。」
 甘い声で耳をくすぐられて、陣太夫はぼうっとなった。お銭がすっと半身を起こ
すと、手もなく立場が入れ替わり、二人の影が闇に溶ける。
 かすかな息づかいは、やがてなまめかしいあえぎ声となって部屋を満たしていっ
た。
 「ああっ、あっ。」
 だが奇妙なことに、身も世もあらぬ声をあげているのは、男の陣太夫の方だ。
 やがて、静まり返った部屋の中で、陣太夫がゆっくりと身を起こした。
 「ふん、他愛のないものよ。」
 そういう陣太夫の笑い方は、紛れもなくお銭のものだった。彼女の「乙姫変化」
は、交わった相手の肉体を乗っ取る忍法なのだ。
 次は宇佐宮付きの女官に乗り移らねばならない。陣太夫のお銭は、ぐったりと動
かない自分の体を畳の下に隠すと、音もなく部屋を抜け出した。

                                                巻三ノ一へつづく ASA