#38 Article 1163 Posted at 1991/04/25 18:13:40 by ASA (MAP2105) [NEKOME]
Subject: 猫目忍法帖(巻二ノ三)
七太郎が猫目谷に着いたときには、もうすっかり日も暮れ、里は淋しい空気に包
まれていた。そうでなくとも立ち寄る者もない隠れ里である。
田舎然とした藁葺屋根の家々を懐かしむ間もない。七太郎は庄屋風の一軒の屋敷
の戸を叩いた。
「開けとくんなせえ、弾正さま! 七太郎でやす!」
「ああ、待て、待て……。」
しわがれた声で答えて顔を出したのは、白い顎ひげを長く伸ばした、仙人のよう
な老人であった。
「お久しぶりでごぜえやす、弾正さま。」
「おう、おう、すっかり江戸言葉が板についたな、七太郎。透丸とお振は?」
「へい、そのことについてちょいと話が。」
と、大真面目な顔の七太郎を見ていた弾正が不意に笑いだした。一瞬きょとんと
した七太郎だが、弾正の声がいつのまにか娘の声になったのに気づいてはっとなっ
た。
「お前、お珠か!」
「どう、あたしの忍法蝋面相、上達したでしょう。」
いたずらに笑って顔をつるりとなでると、老人の顔が皮を剥ぐようにはがれ、声
にふさわしくかわいらしい娘の顔が現れた。弾正の孫娘で、今年十五になるお珠だ。
その面は今でいうラテックスのようなものであろうか。安土桃山時代に南蛮人が、
さる大名に献上するためにゴムの樹を持ち込んで、たいへん珍しがられたという記
録があるが、それを独自に改良したものなのだ。蝋面相という名前からして、弾正
自身の顔の型をとったものだろう。
むろん顔だけでなく、化ける相手の仕草・声・背格好なども似せなければ意味を
なさない忍法ではあるが、そうでなくとも黙って座っていれば、まずわからないほ
ど精巧な面であった。
「透丸さまはご一緒じゃないんですか?」
尋ねたお珠の頬が桜色に染まった。彼女は透丸の許婚なのだ。
「それどころじゃねえ、こちとら急いでるんだぜ。弾正さまは?」
奥よ、と言ってお珠は七太郎を招き入れた。
猫塚弾正は茶室で愛刀勢州将正の手入れをしていたが、七太郎の挨拶を聞くと、
将正を刀掛けに戻しながら、
「おう、おう、すっかり江戸言葉が板についたな――。」
「弾正さま、そいつはもう拝聴しやしたんで。とにかくこいつを読んでおくんなせ
え。」
七太郎が差し出した書状を読んで、弾正のあるかなきかの細い目がぴくり、と動
いた。
「天子さまの妹君のお輿のご警護じゃと?」
弾正が驚くのも無理はない。猫目谷の忍者が歴史の陰に暗躍していたのは戦国時
代の話だ。徳川幕府開闢以来二百六十年間、幕府にも藩にも縁を持たない彼らは戦
国の掟のみをよりどころに、その心技・体技を空しく磨き続けていたのである。
そこへまさに降って湧いたこの大事が、七太郎の掟破りによるものとは、何とも
皮肉な話だが――。
「そしたらいきなり街道の脇の地べたがぐわぁっと盛り上がって、現われたのが山
のようにでっけえ亀でさあ。……」
その七太郎は得意気に街道での出来事を語り出している。今にもぱんと畳でも叩
き出しそうだが、聞いているうちに弾正の顔色は蒼くなるやら赤くなるやら。そば
にいるお珠はいつ弾正の雷が飛ぶかと肝を冷やした。
しかし話を聞き終った弾正は、意外にも大きく笑った。
「全く上出来だわい、七太郎。お主がこんな大仕事を持って帰ってくるとはの。お
珠、四人衆を呼んで参れ。」
はいと歯切れのいい返事と共に、お珠は屋敷を出た。
「じゃあ、おいらはもう一っ走り、先に参りやす。落ち合う先は、書状に書いてあ
る通りでさ。」
「待て。」
「は?」
「四人衆は宇佐宮さまの警護に向かうが、おぬしには別にしてもらうことがある。」
言うなり弾正が床の間の掛軸をぐっと引くと、七太郎の足元がぽっかりと口を開け
た――落し戸だ。
巻二ノ四へつづく ASA