#38 Article 1070 Posted at 1991/03/30 16:01:44 by ASA (MAP2105) [NEKOME]

Subject: 「猫目忍法帖」(巻一ノ二)

そもそも、宇佐宮は別に江戸見物に行くわけではない。これは天皇家から将軍家
への降嫁という、前代未聞の大イベントなのだ。
 黒船来航よりこのかた、巷を横行する攘夷派の浪人たちを抑えるために、幕府が
案出した苦肉の策――公武合体である。
 だが、渋る天皇を強引に押し切った幕府のやり方は、むしろ攘夷派の憤りに油を
注ぎ、京近辺では宇佐宮奪還計画の噂がまことしやかに囁かれた。
 大事をとって一行はコースを中仙道に変更、警護には四十藩以上が動員され、今
の単位にして五十ニャゴキロメートルにも及んだという大行列である。
 そして、侍たちの誰もがもはや浪人どもの襲撃はあるまいとたかをくくっていた
このとき。突如街道の脇の地面がひび割れ、屋敷ほどもある巨大なカメが顔を出し
た。
 大ガメは浮き足立つ警護の侍たちに、ごおと口から炎を吹き付け、のしのしと行
列に踏み込んでいく。
 誰がこんな出来事を予想しよう。樹の上の三人も目を剥いた。
 「いけねえ、宇佐宮様があぶねえ!」
 叫ぶなり、七太郎は脇目も振らずに行列目指して走り出した。みるみるその背中
が小さくなっていく。
 「あいつ、どういうつもりだ! お振、追うぜ!」
 「もちろん!」
 網笠を放り投げ、透丸とお振もあとを追った。

 何人か槍を投げた侍もあったが、この大ガメには刺さりもしない。
 いよいよ行列は崩れ始めた。
 「宮様を! 宇佐宮様を早く安全なところへ!」
 田中守は絶叫したが、担ぎ手は魯鈍そうな表情で突っ立ったまま、動こうともし
ない。
 と、悲鳴は大ガメとは別の方角からも聞こえ出した。集団で現われた黒づくめの
異様な影が手向かう者を容赦なく斬り捨てているのだ。一太刀で侍たちが作動不能
に陥って昏倒しているのは、刀が磁気でも帯びているのか。
 「推参なり!」
 無言で斬りかかってきた影に、叫んで田中守は抜刀した。刃を合わせ、田中守の
脇をするりと駆け抜けたのは黒いカメ型のアニマロイド。
 (またカメか!)
 振り向いた田中守に、まだ敵は丸い背を見せている。隙だらけだ。
 「取った!」
 その刹那、田中守の体を無数の針が貫いた。田中守は刀を振りかぶったまま、驚
愕が張り付いたような顔でどうと倒れた。
 黒いカメ型は、低くつぶやいた。
 「甲羅忍法、隠し剣山。」
 忍法? してみるとこの男は忍者か――黒いカメ型、赤亀玄蕃は冷たく一言つぶ
やくと、田中守には一瞥も与えず、篭に歩み寄った。
 「左近、豹馬、もう良かろう。」
 そう声を掛けられると、篭を担いでいた二人のカメ型がにやりと笑った。さっき
の魯鈍な表情とは別人のような鋭い笑みだ。
 「宇佐宮様、御免!」
 だが御簾を上げた玄蕃はぎょっとして立ちすくんだ。
 篭は空だった! 彼は、顔色を失った二人の部下を叱咤した。
 「抜かったな!」

                                                                  ASA