#34 Article 694 Posted at 1991/05/06 06:42:48 by RAVEN (MAP2299) [NADIA]
Subject: 「不思議の海のナディア」総論
「そうだよね!あきらめちゃだめだよね!」・・・ ジャン 21話 『ただのバカだからね、あれ。』・・・・ 庵野秀明 論中、『』で括った文章は、 全てアニメージュ誌1991年 5月号掲載の「終了直前記念座談会」 よりの、庵野秀明氏の発言の抜粋です。 簡単に言って、「不思議の海のナディア」というTVアニメーションが、 最終的な形で、僕らに示したもの。 それは、あらゆる意味での、一つの敗北であった。 ここで手短に、僕自身の見解を書く。 僕は、「ナディア」第一話をみた時点で、「これはだめだ・・」 という感想を持った人間の一人だ。 素人と見紛うばかりのカットワーク、レイアウトの拙さ。 技術的な演出論からいっても、到底及第点には程遠いうえに、 登場人物と、時代背景が全く整合性を欠いている 例えば、物語の背景としてある時代、あるいは地域を設定するということは、 それらが必然的に持つ現実性を、物語の中に取り込み、演出効果として利用する 事であると同時に、現実性と分かちがたく存在する、あるいは、それがために 現実性を生みだすことが可能な、様々な物理的文化的制約を、 享受するということである。 逆に言えば、物語というものは、その設定に縛られるべきであり、 故意と偶然とを問わず、物語自身がその設定から逸脱するとき、 今まで構築されてきた世界あるいは世界観は、それらを統合してきた力を失い、 自ら崩壊せざるをえない。 (難しく書くと以上のようになるが、まあ簡単に言おう。ゲームにはルールが あるということだ。誰かがズルをしたら、ゲームそのものがつまらなくなって しまう。無論、ジョーカーやオールマイティーを加える楽しさもあるが、 みんながみんなオールマイティーではゲームにならない。) 「ナディア」という物語には、統合性を持った世界観というものが、 最初から無かった。 つまりは“何でもアリ”だったわけだ。 『2話で飛行機の発明とかする段になると、もう無理だらけ。 あの当時、エンジン作るのにどれだけ機材と技術があったか。 できるはずがないのに。 それでもうあきらめて、こりゃあマジメな話しはだめだなって。 「ジャンが飛行機を作って空を飛ぶはなしはなしにしましょう」 とNHKにいってもきいてくれない。 そういうNHKからの要望という外枠があって、 その枠に合わせてリアルなキャラクターを作ったらこうなったという 感じはありますね。』 アニメ「ナディア」の抱えていた問題の一つが、端的な形でここに書かれている TVアニメーションというものが、複数の、商業的意図を持った企業同士の 力関係の中で制作されるものである以上、お互いに相容れない様々な方面からの要求を 取りまとめ、全体的な妥協点を見いだし、なおかつ作品内容を、最大公約数的な安易な ものに留まらせず、可能なかぎりの商業的成功を収めることが、そのアニメーション 制作会社の管理職の、最大の目標である。 さらには、数多くの人間が、それぞれの仕事を抱えて働く共同作業の場にあって、 個々のスタッフ間の意思の疎通、あるいは全体的な統率というものも、管理職が担うべき 重要な仕事であることは言うまでもない。 たとえば、アメリカの映画制作の大多数がそうであるように、 ユニオンなどの取り決めにしたがって、各スタッフが、自分の役割として 命じられた仕事のみをし、それ以外には一切関わらない、という、 スタンスの明確さをもって(と同時に労働に対する保障をもって) 人員の管理に代えるやり方がある。 この場合、上に立つ人間の言動とは無関係に、製作に携わる個々人が、 プロとしてのプライドをもって各々の仕事をこなしていくだけであるから、 それらの人々の想いが、上の方にフィードバックしていく必要は、 必ずしも、無い。 どんなとんでもない駄作を作っていようと、作品の出来というレベルとは無関係に、 撮影なり美術なり、それぞれの仕事というレベルで満足のいくものであれば いいのであり、それに対して十分な報酬が支払われていれば、どこからも文句は@出ないわけだ。 が、現在の日本のアニメーション製作の現実において、そういった理屈は、 成り立ちようがない。 なぜなら、あまりにも危機的状況が深刻すぎて、多かれ少なかれ 製作に関わるほとんどの人々が厳しい自己犠牲を強いられているからだ。 逆に言えば、そういう多くの人の、アニメに対する“献身”無くしては、 TVアニメを作り続けることが不可能だということだ。 決して充分とは言えない報酬。 劣悪な労働環境。 規準をはるかに越えた、膨大な労働時間。 ストレスそのものといえる、切迫したスケジュール。 実際問題として、始めから無理だと分かっているものを、なんとかして間に合わせ 一応の形にはする、というのが精一杯の場合がほとんどである。 (実は、無理を通してしまうことにも問題があるのだけれども) 確かにそれら、製作に携わる人達は、自らその職を求めてきたのだし、 嫌ならやめればいいと、誰に対して文句を言う筋合いではないのかも知れないが、 せめて自分のした努力は、何らかの形で実って欲しい、あるいは、 何らかの形で報われて欲しいと願うのが、万人無理のないところではないか。 そしてそれを裏切ることなく、全力を尽くして応えるのが、 上に立つ人間の義務ではないだろうか。 そう考えてなお、金で応えることもならず、労働条件を改善するわけにもいかず。 (なぜならその結果、作品を作ることが不可能になるから・・) 唯一、アニメーションを生みだし続けながらスタッフに報いられることがあるとすれば それは“良い作品を創ること”にほかならない。 より優れたもの、より新しいもの、より面白いものを創りだしたいという 動機を失ったとき、TVアニメーションの制作は、単なる資源の浪費に成り下がる。 わざわざエコロジーなどという神輿を持ちださなくとも、 こんな下らない無価値なもののために、大切な地球を汚し、限りある資源を 無駄使いしてよいのかという怒りは正しい。 率直に言おう。 集団創作の場において、上に立つ人間は、あらゆる結果的事実に対し、 逃げることなく責任を追うべきなのであって、どのような理由があろうとも、 自らの、創作に対する戦いをなげ、希望を捨ててはいけない。 確かに戦いはつらい。 まして、負けながら戦い続けることは、恐ろしいほどの精神的苦痛を伴う。 だがしかし、アニメーション制作とは、他人の金と、他人の力を預かって、 それをより高い次元の創造物に昇華させる仕事なのである。 その全責任を負うべき人間が、公的な場でどうどうと、一言の謝罪もなく、 作品に対する諦めとも負け惜しみともつかない台詞を吐き、 あまつさえ自己弁護をしてみせる。 これはもう明らかに、作品に関わった全ての人間に対する裏切りである。 『いや、好みじゃないです。 もう成り行きでああなっちゃった。 OVAの「トップをねらえ!」のときは、ひとりでなんでも作れたけど、 「ナディア」の場合は東宝の意図とグループ・タックの意図、 NHKの意図が混沌としてまじっていて・・・・。 それでコネくり回しているうちにああいうキャラクターができたんだと思います。』 誰かの台詞ではないが、成り行き任せなら演出はいらない。 集団創作の場において、創作の要となる人間の最大の仕事は、 あらゆる困難、障害を排して、自分の意思を貫き通すことであり、 そのための努力を惜しまず、情熱を保ち続けることである。 さらには、普段どんな立派なことを言っていたとしても、 それが作品の中に反映されなければ一文の値打ちもない。 クリエイターとは、そうしたものだ。 『心の底から人を憎み、人を殺したいと思ったことのある人間じゃないと、 人を本当に愛することってできない気がするなあ・・・ カッコいいでしょう、いまのセリフ。』 キャラクターというものは、それを創造した人間の分身である。 まあナディアの場合は、作り手の想いが素のまま出たとは言いがたいので、 必ずしも当てはまらないところもあろう。 さらには、外枠があってリアルなキャラクターを考えたということであるから、 現実問題として、その外枠が歪んでいる以上、歪んだキャラクターが 生まれるのも仕方のないことかも知れない。 だがしかし、キャラクターは、一人一人が独立した一個人であり、@それぞれの生い立ちを持ち、それぞれの考え方を持ち、 それぞれの問題を抱えた、物語の中では現実の“人間”として 存在せねばならないのである。 それは決して曖昧に捉えられてはならない。 なぜなら、人間がいて初めて物語が生まれるのであって、 物語を進める駒としての都合で人間がいるのではないからだ。 『ナディアとジャンは、ふたりでひとりですからね。 キャラクターとしては、ふたつが両方折り重なって、 いわゆる普通の人になるはずなんですよ。』 そんなひとはいない。 どんな人間も、一人一人で普通の人である。 庵野氏は、形式的なパターンのバリエーションとしてだけしか、 キャラクターというものを捉えていないのではあるまいか。 氏がリアリティーを感じて、キャラクターを動かす部分は、 氏自身の人格が投影される箇所に限られており、それ以外の場合は、 単に台詞を喋るためにのみキャラクターが存在するといっても 過言ではないように思える。 それは、端的にガーゴイルというキャラクターを見ても分かることだ。 ガーゴイルが、冷たく突き放した口調で、まさに事務的に悪事を働くのは、 そこから人間的な感情のエネルギーとか、人間本来の持つドロドロした いやらしさを排除すると同時に、悪を働かざるをえない動機を 明確にすることを避け(それは、悪人にも言い分があるのだという 価値観の逆転を招くので)視聴者が容易に憎むことのできる、 “通り一辺の悪役”として成り立たせるための方便である。 ガーゴイルは、動機を持たない“悪事”そのものであって、 それを支えるべきバックボーンを何一つ与えられていない。 なぜか。 悪役が、人間として成り立ったうえで、悪事を働くのであれば、 見るものも、実際に感情を動かしてそれを憎む必要に迫られる。 (嫌うこともまた、感情移入の一種である) が、ただの記号としての悪役であれば、単に理解するだけで済む。 悪者はただ単に悪いことをする存在なのだと。 他の、その他大勢にしてもそうだ。 何故そう行動するのか、どういう気持ちからその言葉が出てくるのか、 全く理解できない場合が往々にしてあり、伏線ならともかく、 いざ事件が起こる段になって、申し訳程度に説明が添えられるだけである。 こんな操り人形の一体どこに感情移入しろというのか。 いや、むしろ創作者は、見る人間がキャラクターに想いを寄せることを、 拒んですらいるのではないか。 物語というのは、つまるところ「人間が何処かから来て何処かへ行く その方向転換の一瞬を切り取ったもの」だと思う。 どこから来たか分からない人間には、どこへ行きようもなく、また、 立ち止まっている人間に、言葉は必要ない。 だから、ジャンは、何もしなかったのだ。 ジャンにはするべきことは、何もなかった。 だって、ジャンには何も与えられていなかったのだから。 結論に移る。 「不思議の海のナディア」という作品は、作り手側からも、見手側からも含めて、 何故だ、という疑問を持った人間に対して、何一つ答えを用意していない。 というよりは応える意思がない。 応えることを放棄した作品である。 単なるプライベートフィルムであり、金を取って人に見せるべきものではない。 作り手のマスターベーションであるに等しい。 TVアニメーションが、コミュニケーションのための創作であるということを、 完全に無視していると言えよう。 無論、疑問を持たない、持つことを知らない人々には支持されるであろうが、 それが何らかの発展的ベクトルを含んでいるとは、どうしても僕には思えない。 「ナディア」という世界は「庵野秀明」という人間のなかで、閉じている。 (僕が「ナディア」を見てつまらないと思ったということは、 「庵野秀明」という人間に対してつまらないと思った、という事に ほかならないだろう) だから、改めて言う。 これは、TVアニメーションというメディアの、あらゆる意味での一つの敗北である。 昔の薔薇は、枯れ果てて今はもう無い。 様々な、傑作を生みだす要素を持った試みは、その内側から崩れさった。 悲しいことに、僕らの目の前で。 はたして、そこには希望という、最後の一苗は残されているのだろうか。 それは、ただ時間だけが結論を出せることなのかも知れない。 「かくて 恋せし者の 語りていわく」(植島啓司) 以上 文責 結城 二十六 注:このアーティクルに関してはRES無用に願います。 注2:文中の引用部分が著作権に抵触するとネット管理者が判断した場合には、 即時アーティクルを削除します。