#25 Article 1285 Posted at 1999/04/12 00:26:39 by ONOGIN (MAP2242) [MEISAKU.3]
Subject: Re:*5 第3回アニ研連名作上映会のお知らせ /1283 ... /1280 /1279
環境を Windows にして以降、ここにはごぶさたしておりました。お久しぶりです。 >家帰ってパンフ見返したら、鮎さんと >堺礼彦さんって同一人物じゃないすか。驚きました。 堺君は、'90年に早大アニメ研に入学されました。私が4年の時です。 その頃は、入ってきた人に必ず顔の回転などをテーマとして与え10枚程度の 作画をまずやらせていました。堺君は、いきなり100枚程度のそれも、鳥が 飛んでて飛行機がやってきて、下の格納庫から丸い物を落下させて、地面に落 ちたら扉が開いて、少年が走り出してくるというような(本人いわく「ちょっ と書いてみました」)作品をもってきました。 それが、生まれて初めての作画だったと思います。 その後'92年まで、EVERGREEN の作画に加わります。(結局作画は5人) 堺君には合計で10分程度担当してもらいました。彼は、快活な動きが最も得 意だったので、残された少年が、都市で相棒を探し回るシーンや、ラストシー ンの波などを担当してもらいました。 その間にも、「よっちゃん」という個人作品(途中でやめてしまいました)な どもつくっています。 '92年春、堺君の同期(作画の3人)を EVER から切り離して、次の共同制作 に作りに着手してもらうことにしました。しかし、企画会議は夏頃までもめに もめ(*)て、少し人間関係がやばくなっていたのと、'93年に、「星に願いを」 「LSー1」あたりが来る可能性があるためか(!?)、EVERは'92年の冬の上映 会に間に合わなければ、もう上映はできないという研連からのご達しが来たこ ともあって、急遽、彼らやその下の世代を EVER に引き戻し、'92年の10月か ら12月までの3カ月間、最後の追い込みとなります。(この3ヶ月は、本当 に「熱い」時でした。臭い言葉でいえば皆の心が一つになった、先輩後輩を超 えた一生の友達としての絆みたいなのが生まれた瞬間でした。) (*)皆、個性が強すぎたうえに、上手かったため。 '93年、堺君の同期とその後輩は、自分たちの共同制作はもう卒業したと感じ ていたのかもしれません。この年、各々、個人制作へと路線を変更していきます。 堺君と大野君(EGで2カット作画、メインは仕上)と、1つ下の林君(今回の 名作の表紙担当、EGで1カット作画)が組んで「うごうご3人娘」という2分 程度の作品を制作。堺君の担当カットはリボン。林君の担当がバレー。 浅海さん(EGでコンピュータとの会話のシーンをほとんど担当)と、1つ下の 篠崎君(EGでの制作進行)と松本君(EGで4カット作画)で、「ガワランダー予告」 を制作。 川崎君(EGで全てのロケット&ラストシーンの絵コンテ&作画担当)は、「エア クラフト」という同人誌を制作。一人、就職活動に入る。 '94年、「うご」の後、堺・大野チームは、作画と仕上げの7割まで完了したと 言われる、「ぺんぎん」という作品を制作しますが、質を上げるために、作画 は2人で、仕上げは新人に(半強制的に)やらせるという、プロに近いシステ ムにしてしまったために、崩壊。 その際、話し合いで、「個人制作は塗りまで自分でやるべき。もしくは、納得 の上協力程度にとどめること。」というようなことになったと聞いております。 「ソの夢」は「うご」の直後に絵コンテはできていたと思います。この時期、 「ぺんぎん」を先行したのは、共同制作への夢がまだくすぶっていたのかもし れませんね。 これが一つの転機でした。その後堺君は、完全な個人制作(*)の領域に入って いきます。「ソの夢」が終わり、すぐに「東京の空の下」へとつなげていきます。 その後、疲労が祟り一時入院。今は、元気に復活しております。新しい企画も 見せてくれました。 (*)ここでは、作画&仕上げを差しています。背景は、EGの半分(300カット岩場 や神殿や都市や木々)の背景を書いた秋山君ですし、コンピュータの担当は渡辺 君(名作のパンフのちょっと口がすべったちゃん)です。 鮎君は苦労しているんです。また、その苦労が生きていると思いますね。 身内を誉めるという行為は、みっともいいものではありませんが、(私にとって) 鮎君はいくら誉めてもいい存在なのです。 しばらくは本業(アニメータ)に専念するそうです。 Onogin