#22 Article 2322 Posted at 1994/09/19 01:16:43 by HIDE (MAP3950) [USHIRO]
Subject: Re:*34 うしろの正面だあれ /2287 .......... /3185(#20) /3176(#20)
はじめに 提案に対する反応は、ほぼ予想したとおりのものに終始してしまったが、この一件 に対する各書き手の意向がどのようなものかを確認できたので、これはこれで参考に なった。 結局、書き手それぞれのスタイルはそれぞれで、わたしとしては別々の問 題として対応して行く以外はないようだ。具体的には、「とことん話し合い」であっ たり、「激烈な議論」であったりだ。「ののしりあい」はさすがに、もううんざりと いったところなので、こういった個人に対しては、「完全無視」の姿勢でのぞみたい と思う。 ことの発端 「後ろの正面だあれ」に対してのゆ~さく氏の最初の書き込みは、わたしがこれま で述べてきたように、誤解を与えかねない文章であったといまでも思ってる。しかし、 誤解なら誤解でそれでいいのだ。ゆ~さく氏はわたしの感じたようなこと--具体的 には絶対的な意見として述べたなどのこと--に対して否定しているわけで、それな らばそれについてわたしがとやかくいうことは何もないのだ。 もちろんそのときのわたしのものの言い方が攻撃的であったことについて、あれこ れ言われることは仕方がないと思っている。それでも、自分の思ったことをストレー トに書き込むことは、その後の展開がどうであろうとも、それなりの意味がある。彼 はその文章に対して、予期しなかった反応があることを知ることになったわけだし、 ほかの読み手は、その事に対して考える機会を得たのである。そして、わたし自身も こうした問題に対して考える機会と、その考え方について読み手にアピールする機会 を得た。 その後の展開のまずさ--誤解なら誤解でいいとのべたあとに、なぜそう思ったの かという解説をしてしまったこと--で新たな誤解を生んでしまったことは、ちょっ とした行き違いとなった。あれは、闇将軍さんの質問に対して単純に答えたもので、 現在のものではなく、過去の心情の一部を表しただけのつもりだった。 そういうわけだから、ことの発端となった文章のゆ~さく氏の書き込み態度につい ては、わたしの方に誤解があったと認めよう(その後のものについての一部は別だが、 本論とは関係のない話だしそれを言いはじめたらきりがないのでここではやめておこ う)。しかし、だからといって謝るつもりもない。最初に書いたようにいまでも「誤 解を与えかねない文章」だという意味ではそうだと思っているし、そう思ったという ことを書き込むことは間違っていないはずだからだ。 いずれにしろ、発端となった問題については、すでに解決していると思っている。 別の問題 それとは、別の問題。別の問題と言っても、この「問題」は先に問題として述べた ことと、質の違う問題だ。この問題は、ゆ~さく氏がしたがっていたほうの話だろう。 いわば、「作品の作り方」にたいする問題。プロ意識やテーマ、メッセージ性、現実 と非現実・・など。これについて、わたしはゆ~さく氏とは違う考え方を持っている。 いままでの議論から見てもわかるとおり、ゆ~さく氏とわたしとは、ものごとのとら えかたがまったく違うから、これはまあ当然といえるが・・。この問題についてのわ たしの見解を順にしめしていこうと思う。 プロ意識 ゆ~さく氏にいわせれば、わたしはプロ意識を欠如したプロだということになるら しいが、さて、このプロ意識とはいったいどう定義すべきものなのか? いうまでもないことだがプロとは一般的に、それを職業としている人、あるいは本 職、専門家、あと玄人という意味がある。素人ではない、それで生活が出来る人のこ とをさすと言ってよいだろう。プロ意識とは、それらの人々が持っているべき共通の 認識といえるかもしれない。 だが、社会人の大半はなんらかの職能を持ったプロであるともいえる。このあいだ で、共通の認識を見つけだすことは難しい。そのプロ意識は個人によってまったく異 なるだろう。もっと的をしぼって専門職という意味ではどうだろう。技師、大工、左 官、料理人、プログラマー、etc.これらのあいだに共通の認識はあるか? ある とすれば、その仕事にたいする責任感といった漠然としたものしかないだろう。さら にしぼって、漫画家、アニメーターやわたしのような背景、演出、脚本、撮影、et c、いわゆる「業界人」にとって、共通の持っているべきプロ意識とは・・ただひと つ大命題としてあるのは、締め切りまでに求められている水準以上の仕事を間に合わ せなければいけないということぐらいのものだ。それ以外の共通した持っているべき プロ意識などというものはない。 つまり、プロ意識というものですら個人によって千差万別なのである。 創作理論(技術) 作品づくりにおいての理論的なことは確かにある。こうしたら面白かろうとか、あ あしたらここで観客は泣くだろう。こう見せると面白く、こうしてしまうとつまらな い。笑わせかた、泣かせかた、怒らせかた、シナリオ作法、演出技法・・。こうした 技術は確かにある。ゆ~さく氏の言われるようなことは確かに一理あるのだ。 しかし、それにすべてを置き換えてしまうことはできない。ゆ~さく氏のこれまで の書き込みを(#22、#20に限らず)見る限り、そうした技術的な側面に比重を 置き過ぎているきらいがある。 創作物は(物語に限らず、絵、音楽、デザインetc.)必ずしもそうした技術に 支えられているから良いというわけではない。 ここでその例をふたつほど紹介しておこう。 でもね、長い歴史を持っている物語の作者にはちゃんと作劇術というテク ノロジーがありまして、それを学べばだれだってひととおりの物語が作れる わけです。だから、コンピューターにそれを教えれば、コンピューターはち ゃんと作って見せるんですよ。今、流行のシルエットロマンスとかハーレク インロマンスなんかは、コンピューターがプロットを作っているわけ。だけ ど、それはいままであったものしか作れないんですよね。いままでにない斬 新な組み合わせというのは、人間のインスピレーションというミステリアス な部分からしか生まれてこないわけで、いままであったものをいくら上手に 取捨選択して作っていっても、本当に読者を感動させる強烈なものにはなら ないんです。 --ルーミックワールドVSウルフランド 語り尽くせ熱愛時代より 平井和正 そう、「FF」だ。同シリーズはここまで、そんな配慮とは無縁のゲーム 作りをしてきた。「ストーリーを作る」ことと「シナリオを組み立てる」こ との違いに気づかず、ただイベントを並べるだけの物語構成を貫いてきた。 わたしが「『FF』のシナリオは三流だ」といい続けてきたのは、そのため である。 (中略) 今、自分が全体の何分の1のあたりにいるのかを伝えるための配慮はない にもかかわらず、膨大なイベント密度により、不安を感じさせる間もなくプ レイヤーを引きずりこんでしまう。既存の論理がまったく通用しない、魔法 のようなシナリオ構成である。 たぶん、これは偶然に生まれた例外的に傑作なシナリオ構成なのだろう。 しかし、もしかしたら、まったく新しいシナリオ技法の誕生なのかもしれな い。 --Hippon SUPER! 1994.6 野安ゆきお これに限らず、世の中にはこのような話が満ちあふれている。私に言わせれば、技 術や理論は、あればあったほうがいいかもしれないが、作品を評価する(あるいは作 る)上での決定的な基準にはなりえない。ほとんど二義的な要素にすぎないのだ。あ る場合には邪魔にすらなるだろう。 創作にもっとも必要なのは方法ではない。発想なのだ。だから、「こうあるべきだ」 などというものはない。せいぜい「こうであったほうがいいかもしれない」という程 度のものだろう。 夢と現実 思考と物理的な世界といってもいいだろう。われわれはあらゆる瞬間に現実と対峙 している。それは、眠っていて夢を見ていようが、すごく感動的な作品を見ていてい ままさにクライマックスの瞬間であろうが同じことだ。いつどのような瞬間であって も現実に起こることの影響を受けるのである。そんなことは当たり前のことで、いま さらいうまでもないことだ。 しかしわれわれは、思考によって行動を決めている。別に物理的法則にしたがって 行動が決められるわけではない。そういう意味では思考と現実とは切っても切り離せ ない関係にある。その思考の部分にアプローチするのがアニメ作品をはじめとする創 作物、そしてドキュメントである。 フィクションというのは、現実性という意味ではドキュメントにおよぶものではな い。「後ろの正面だあれ」をはじめとするフィクション作品が、どんなにリアリティ を追求しようが、その現実性においては一枚のドキュメント写真に遠くおよばないの である。では、現実に起こった出来事をフィクションで描くことは意味がないかとい えば・・当然ある。フィクションにはフィクションの強みがある。しかし、フィクシ ョンである限り、それは誰かの創作物であるのだ。誰か・・は、一個人(監督とか原 作者)であったり、複数(スタッフ、スポンサー)であったりするが、それは誰かの 意志を反映するものだ。誰かの意志を反映しているものである以上、その意向に基づ いて作られるのは当然のことだ。誰かが、こういう作品はこういう作り方をしなけれ ばいけないといおうが、作劇術がどうだと言ったところで、その作品はそれで一個の 「個」としての魅力を持った作品なのである。戦争をテーマにしていようが、人種差 別をテーマにしていようが関係はない・・それはフィクションなのだから。ただし、 それが評価を受けるときには厳しい現実が待っている。良ければ、よいなりの反応を 現実生活の中で受けるであろうし、悪ければ、悪いなりの反応を受けるだろう。ただ、 それを決定づけるのは、ある特定の評論家ではない。個々の個人が、あるいは個々の 団体が決めるのである。その総量によって製作した側の評価が決まると考えていいだ ろう。それこそが現実なのである。 戦争と平和 戦争とはいったいなんだろう。ある意味での戦争は、日常茶飯事におきている-- 企業間の戦争とか、対人間の戦争とか--が、この場合での戦争とはもちろん国家間 の争いを解決するための実力行使を指している。国家間でなくても、大規模なグルー プどうしのものでも、戦争と言えるだろう。 では、戦争の起こる要因とはなんだろう。一般にそれは「経済」であるとか「宗教」 であるとかいわれているが、どちらにもいえることは、自分の国の都合を相手に押し 付けるところからはじまっている。先の大戦の日本の姿というのはまさにそれで、国 家規模の思想の押し付けが国内からはじまり、それは海外へとおよんだ。ドイツも同 じ様なものだったろう。アメリカだってそうだ--彼らは自由という思想のために戦 っていたのだから(もちろんそればかりではなかろうが)。 しかし戦争の何が恐いのだろうか? 血が流れるから? 一度にたくさんの人が死 ぬからだろうか? それともあるいは、町が破壊されるからか? 生活レベルが下が るから? もちろんそのどれもが恐ろしいことだ。 しかし、本当に恐ろしいのは、個人の生活が脅かされることである。極端な話をす れば個人の生活が脅かされないのであれば、戦争をしたい連中の血がいくら流されよ うとも、悲惨な出来事がおころうとも、悲しくはあれ、恐くはないのだ。だが、現実 には個人の生活が脅かされない戦争などはない。本当に戦争をはじめた人間よりも、 ささやかで弱い立場の人間のほうが、より大きな害を被るのである。だから、戦争は 恐ろしい。 しかし、そういった戦争の恐ろしさの押し売りがはじまったとき、歪みが生じるだ ろう。その歪みのゆれもどしは、より大きな代価を要求することになるにちがいない。 おわりに 「個人は個人にすぎない」ということの裏をかえすとそれは「個人はかけがえのな い個人」なのである。「人には自分の人生を生きられない・・だから自分は自分の人 生を生きて行く・・」とはどこかで聞いたことのある台詞のはずだが(すくなくとも、 ゆ~さく氏には)、いろんな考え方や、感じ方があってこそ面白いのである。そのす べてを受け入れる必要はないし、黙っている必要もないが、忘れてはならない。個人 は個人にすぎないが、ほかにかけがえのない個人なのである。 ・・・By HIDE(MAP3950)☆