#22 Article 2287 Posted at 1994/08/27 20:49:57 by ゆ~さく (MAP1754) [USHIRO]

Subject: Re:*33 うしろの正面だあれ /2286 .......... /3185(#20) /3176(#20)

「議論をしたくない」というHIDEさんのスタンスは、これは仕方が無いでしょう。

HIDEさん御自身はきっと「そんな事は無い、私はちゃんと公明正大な態度で
議論に臨んでいる」とおっしゃるのではないかと思うけど、そうではない。
貴方は「言葉を使って否定をしたい」のであって、御自分の言葉の中で繰り返し
「議論はしたくない、したくない」と表明なさっている。
「個人の意見は意見。それ以上でも以下でも無く、また他者の意見もそれだけの物
 でしか無い。個人の意見は他の誰からも侵されるべきものでは無い」という意の
事を書いている所がそれね。

そんな事を言っていたら人間は一歩たりとも変わらない。
人間は宿命的に変わるべき、変わらなくてはならない存在である。
なんだか現国の授業で高校生を相手にする話みたいだ。

同時に「作品が100あれば100のスタイルがあるのであって、どれがどれに
    対して相対的に優っていたり劣っていたりするなどという事態は有り得ない。
    それら一つびとつの作品は「個人の意見」と同じく、不可侵である」

…という氏の考えもまた、「プロ意識の欠如」とか言ったそーゆー言葉で一絡げに
出来ちまうかも知れない。

>特別な状況が、特別なものを産んでしまうことはよくある話しです。
>平たく言えば怪我の巧妙ですね。

…等と氏が本気で言われてる事が如実に語っている。優れた作品が努力も研鑽も無し
に宙から降って湧いて来るなんて事は「それこそ絶対に!」有り得ない。

そんな寝言を言っていては死に物狂いでいい物を作ろうとしている人々に失礼です。

しかし、ここでそんな氏の考えを取り上げてあーだこーだ言うつもりは無いし、言う
必要も無い。それは氏がこれから考えるなり一生考え無いなりすればいい事である。

あと、私の意見を作品と個人に対する「侮辱」と受け取ったハナシだけど、
誰も侮辱などしてはいない。それはやはり、アナタのアタマの中で起きている
印象だ。
いや、「印象」というより傷付いた心が感じさせた「感傷」の様な物かも知れないが…。

とにかくワタシが作品に対してあの様な感想を持った事はいかんともし難い「事実」
であり、それを「侮辱」などという言葉で語ろうとするのは事実の婉曲である。

……なぁんて、これらの氏の「語り方」に対する意見はここまで。

この先に、こんな事を問題にするつもりはさらさら無い。
ただ、HIDE氏の物の言い方は我流過ぎる、それが相互理解を困難な物にしている、
「言葉」という物の扱いがもっと普遍的なモノになる様に努力された方がもっと色々
武器になりますよ、というおせっかいだけは言っときたい。

「言葉」も「作品」も、それは個人で発せられた時点で完結する物では無く、
人に渡された時点で初めて意味を持つ物だから。

作家が己の物の書き方について七転八倒して苦しむのも、実はそこなんだろうと思う。
「己だけが判っているだけでいい」のなら、なにも物を書く必要は全く無い。
自分だけはそりゃもう確実に判ってるんだから。当たり前じゃないか(笑)。
「考えの違うヒト」に「己の考え」を伝えて正当性を立証したいからこそ苦しむ訳ですね。

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
さて、では氏への話はここまでにして、
真に問題にしたいのは何か、と言えば無論「作品」の事である。
HIDE氏は、#20の Art3235で、初めて…「ついに」とゆーか、
作品への「思い」を熱く語ってくれている。

これは大変に良かった。

これを読むと、何故氏がワタシの意見を読んで悲しみ、そして激怒したかが初めて
ストレートに伝わって来る。

…真剣な思いで、「語りたい」事を真っすぐに出した物であればこそ、それは人の心を
打ち共感を得る事が出来る。少なくとも「侮辱だ」とか挑発的な言葉よりはずっといい。

これを読んで、私にも氏の、
『なんでこんな愛すべき作品を侮辱するんだ。
そして何故そんな事をされなければならないんだ』という『悲しみ』が伝わって来た。

ここで、はっきりと認めておく。

貴方がこの作品に対して『感動』した事を、そしてそんな『感動』を与えた
この作品の『価値』を、今、はっきりと認めておく。

ただし、しかし、それは私の意見をひるがえす…という事とは関係無い。
                            ^^^^^^^^
「いい」とか「悪い」とか言った単純な二元論では、オトナの会話は成り立たない(笑)。
疑問に思う方は先を読み進んで欲しい。

さて、私の願いでは『感動』という物こそ多くの場合不可侵であるべきではないか
と思う。 ^^^^
程度の差や事の大小はあれ、ヒトの頭の中の「感動」はいつでもそれなりに尊く、
それに敢えて貴賎を付けるべきでは無いのではないかと思う。
…多分に感傷的な物の言い方だが。

多くの場合、「感動」は人がプラスの指向に同調した場合に起こると思う。

「あァ、チャチャ可愛い~」などというアホな感動であったとしても、その人が
そう思ったその裏には「ああ、こんな優しいたおやかな女の子を守りたいな、
こんな純真な魂をこの世から無くそうとする大魔王なんて許せないよな、でも
彼女は優しい、強い人々に囲まれて幸せに微笑んでるよな、俺も出来る事なら
その輪に加わりたいな」…等というそのヒトがそれまでの人生で経験し感じて
来た、様々な思いが込められていたりするのだ。セキメン>(*^_^*;)<ウウウ

それに対して「その感動はくだらないと思います」だなんて言い出すのは野暮という
物ではないか。チョットガデンインスイ>(^_^;)

実を言っちまうとここの所 #160 や #161 で「こーゆーのは感情移入した者だけが
得をするッてのはありますよね(^_^)」なんて書き込んでたのも少々意図的でして。
アレは作品の由し悪しよりも、観賞するオ○ク的人々の楽しみ方の事を言ったつもり
なんだけど…今回のこの文と合わせて、ワタシの「いつもの」スタンスを自己弁護する
つもりでおりました(^_^;)。
ま、まァ、でもこれ位言っとかないとここから先の重い話になんかとてもじゃないが
進められない…って事もあるのでので御勘弁。

で。

『感動』は、そのヒトのそれまでの人生と密接に結び付いている。
それを否定する事は、人格を否定されるのに近いショックを受けるだろう。
語る者に全然その気が無い場合であっても。
HIDE氏が件の作品に関する一連の感想に対して激怒された経過もうなずける。
それどころか、私が例として挙げた作品が作品だった事もあるが、氏が感じられた
思いは娯楽作品の「チャチャ」等に感じるソレとは比べ物にならない程清く、無垢で、
切実な物であったろうし、そう感じさせた作品は真面目な態度で優れた描写力を
持って丁寧に…そして確実に「善意」の元に作られた作品であっただろう。

そしてそんな作品に心を動かされたHIDE氏の感性は敏感で、心の優しい、
痛々しい程剥き出しの純な物であっただろうと思う。
Art3235を読むと、それが伝わって来る。
だから、HIDE氏が件の作品を観て感動し、それを否定されて激怒した事は
断じて間違っていない。
「感動」した者の足元をわざとすくってやろうとする、それが目的のツッコミは
下衆の行ないである。
(なんつったりして。ISAMせんせ辺りに怒られそうだな。まァ、これはHIDE
 氏の感動の正当性とワタシの二面性を擁護する予防作的詭弁とゆー事で(笑))

私も当初も当初、#20のArt3194の冒頭で似た様な事を最初から書いている。

…しかし。話は続く。

ならばと言って全ては仲良く終わるのか。そうでは無い。たいへんに残念だが、
そうでは無い。

この地球に生きている人間の世の中は、そんな単純な話では終わらない。

				*

「夢の中で果たす作品の機能と感動」「現実の中で果たす作品の機能と感動」
…という話を致しましょう。

私は『夢』が好きだ。「夢物語」というべき作品、幸せなコメディ、美しいポエム、
最後には泣き出したくなる様な優しいハッピーエンドが与えられる物語。

良く現実の中でカツカツになって生きている人々には、「何をそんな一文の得にも
ならない事にウツツと抜かしてるんだ」と言われてしまいそうだけど、それでも
道端の小さな花に優しみを与える様な、そう言った大事な事を思い出させてくれる
様な作品が無くなってしまったら その時こそ人間の社会は本気でヤバいと思う。

夢物語なんだけど、おヤクソクなんだけど、現実にはそんな風に上手くいくはず
ないんだけど、ありもしない話でも……いいじゃないか。

チャップリンの泣き笑いの優しい物語、「サウンドオブミュージック」等の一連の
ほのぼのお約束ミュージカル、そして……『アニメ』。

『夢』はいい。それこそ、無条件で……いい。

「夢を見る」事が許されない人生ならそれは至極味気ない物だろうし、
「夢を見る」事が許されない社会だったら私はそんな酷薄な社会に居たくない。

ところで「夢」というのはこの場合、「アニメ」の様な白昼夢的な物も含めるが、
「おとぎ話」に始まって「小説」「映画」「演劇」はたまた「歌謡」「アイドル」等、製作者の
操作に従って現実と少々異なった軌跡で描かれる全ての表現を指そうと思う。

それらは文化として認められ、社会的にも経済的にも人間の活動の一つとして
社会に根深く関わり、「娯楽を与え」たり「感動を与え」たりする事で人の精神面にも
多大な影響を及ぼし、その巨額の収益をもって最早、社会を成り立たせる柱の一つ
とまでなってしまっている。

それは既に人間の創り出した一つの「世界」である。
そしてそれに感動し、それを糧として人生を送ろうとしている我々の様な人種も居る。

しかし。

人間は「夢」の世界ばかりに関わって生きているのでは無い。

人間の社会。

それは「夢」などというちっぽけな物などオヤツ代りに飲み込んでしまうくらいに、
激しくシビアで毒々しく強力で抗い難い物である。

そしてそれは強烈な矛盾、残酷な不条理、引き裂かれる様な不幸、生々しい犠牲、
陰謀、餌食、威嚇、恫喝、罠、そして実力行使に満ち満ちている。

そして、我々はそういった社会に確実に関係し「生かされて」いる。

慈愛に満ちた母親が、何の不安も無く我が子にミルクを与えられる豊かさは、
弱小国の生き血を啜り屍肉を食らって得た糧だ。

そして我々が「夢」の世界を享受し、美味しいランチで腹を満たしながら「感動」に
ついて語れるのは、そういった酷薄で残虐で、力と力の構図の上に成り立った
社会に守られ「生かされて」いるからである。

我々は、確実にそういった社会と繋がっている。貴方も、私も。
切り離されてはたちまち飢え死にだ。

そして「夢」の世界に関わったり、真剣に考えたり、もの創りのために骨身を削ったり
時には身体を張って「夢」創りを守るために生命を賭けたりする…そんな風にして
生きているのと同様に、

我々は現実社会の方でも働き、考え、反省し、甘受し、無視し、無関心を装い、
…しかし時にはあるものに逆って主張し、騙され、抵抗し、揶揄し、行動したりして
生きているのだ。

言い方がヒダリだな俺も(^_^;)。

この場合、「夢」創りの世界で作品の事を語ったり社会に出て行く前の段階で理想社会
の話や人間としてあるべき姿やら語り合ったりするのと、現実世界で実際に行動し、
抵抗し、実際に社会に対して結果を出すのとは訳が違う。
       ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
現実の世界は力の構図で動いており、そして様々な思想、思惑に満ちている。
社会構造の違いでシロが別の土地ではクロになる事など日常茶飯事。
そして宗教やイデオロギーの違い等から、そりゃもうあきれる位に陰惨で残酷で
食うか食われるかの仁義無き白熱バトルが日夜繰り広げられているのだ。

この戦いにルールや紳士協定など無い。卑怯でもなんでも結果を出した方の勝ちだ。

一つの理想があっても、別の勢力がそれを潰したいと考えたなら、ありとあらゆる
手段で潰しにかかって来る。
「人間はこうしなければならない」と理想を掲げても、それを邪魔だと考える勢力が
有ったならば脅迫、威嚇に限らず懐柔やら逆宣伝、陥れ、それこそ様々な手段を使い
無力化しようと策略を組んで来る。

「夢」の世界の範疇や、理想や希望を語る議論でなら「それはあくまで貴方の意見。
僕の意見はそれとは違い、絶対に不可侵で揺るぎない物です」なんて物の言い方も
許されるだろう。

しかし日帝が「貴方は徴兵され、特攻して死ぬ事に決定しました」と言って来たり
ナチが「貴方はユダヤだからガス室で殺す事にしました」と迫って来たりする時に
「それは貴方の意見であって、僕の意見とは違う。僕の意見は何者にも侵されない」
等と言っているヤツぁいね~~~のである。

天皇についてあれこれ言っただけで銃撃された長崎の市長を貴方は知っているか。
朝日新聞の販売店が何故頻繁に銃撃されるか知っているか。知ってるだろうけど。

夢を「守る」ために、いい「夢」を創るためにそれに関わる者達は日夜努力している
のだけれど、同時に我々は現実の中にも生きている。

「夢」の掌中に…母の胸に抱かれる様に「夢」の懐中にある時以外は、現実の問題に
対してもまた戦うか、もしくは将来も戦い続ける事を誓っているのだ。

大人だから。男だから。

さて、段々言いたい事が現れて来た。「戦争」の話に移る。


田村 隆一  「立棺」から


わたしの屍體を火で焼くな

おまえたちの死は

火で焼くことができない

わたしの屍體は

文明のなかに吊るして

腐らせよ


(…恥ずかしながら、私はこの人の本を読んだ事がありませんでした。
  朝日新聞の社説が引用してたソノママの受け売りです。済んません)

「風化」とは恐ろしい物である。
どんなに強烈で悲惨で地獄の様な体験であろうと、民族が力を振り絞ってその記憶を
維持しようとしない限り、日々の生活や「恐ろしい物に触れたくない」というごく自然
な心の働きによって徐々に大切な体験のピントはぼけ、幽霊の様に薄らいで、やがて
何が正しくて何が間違っていたのかさえ朧げになって来てしまう。

あれだけの犠牲を払った体験でも。

そして、意図的にそれを…誰も彼もが記憶が薄らいでしまって、何が大切なのか
はっきり言えなくなってしまう事を狙い意図的に活動している勢力がある事も
忘れてはならない。

この、民族が無意識の内に忘却したい…辛い事に触れたくないという思いが集積し、
やがて社会の動きとなり、目に見えない抗い難い重圧となって行くのが一番恐ろしい。

ごく自然な心の動きのはずの「イノセント」、それも心の片隅でほんの微かに動いた
だけのもの…がこの場合は珍しい位に劇的な転換を果たし重大な過ちとなり罪となる。

「犠牲」等と書いたが、それはそんな言葉で語られる程生易しい物では無い。

彼等の死から目を背けてはならない。
彼等の死を忘却の中に埋めてしまってはならない。
「これは「お話」なのよ」という「仮定」の話にしてしまってはならない。

それを行なう事は民族の、現代に生きる我々の罪だ。

彼等の骸(ムクロ)は、常に我々の目に付く陽の当たる場所に置いて、腐らせ、蛆が湧き、
無残に朽ちていくまさにその瞬間を永遠に留めなければならない。

それが真に彼等の「死」に同調し、協調するという事ではないか。

民族の慚愧と悔恨、懺悔の思い。

それを永遠に留めようとする行ないが毎年この暑い夏に行なわれる我々の義務である。

そして、「意図的にそれを忘却の彼方に葬り去ってしまおう」という勢力と戦うのも、
現実の中に生きる我々の義務であろう。

件の作品、「うしろの正面だぁれ」は決してくだらない作品では無い。
また「敵」でも無い。同じ事をやろうとしている、いわば「同志」である。

イヨイヨ イウコトガヒダリジミテキタゾ>(^_^;)

純粋で、「こんな事はもう起こしてはならない」という切なる願いの元に創られた、
愛すべき佳作である。
私は、それを「駄作」と決めつけた覚えは全く無い。

しかし『甘い、メッセージ性が薄い、安直な感傷、ガキの遊びの様だ』とは言った。

		   それは事実である。

		少なくともラストシーンに於いて。

(「ガキの遊び」≒「夢」の世界の作品)

HIDE氏は、件の作品に触れて悲しい辛い思いを主人公の少女と共に追体験した。
50年前の空気をまざまざと蘇らす優れた技術の映画だったし、そこから受けた
感銘も清く、誠実で、一片の曇りも無い物であっただろう。

しかし、ラストで少女が得た「救い」によって、氏の胸中に かすかな「安心」が宿った
ことは無かったか。
そして、ひょっとしたら私の最初の意見によって少女に与えられた最後の「救い」も
引き擦り落とされ蹂躙された様な気がして、少女に感情移入していた氏は大切な、
守らなければいけない最後の美しい物が破壊された様な気がして、それで激怒した
のではないのか。
だとしたら、私の一連の書き込みは大々々成功だったという事になりはしないか。

				*

かの作品に対して、私は「この手の作品は、創るだけで意味がある」とも書いた。

事実だが、しかしこの論争を読んで、件の作品に対して「アレだって「何とかこの
悲しい出来事を伝えなければ」という切実な思いの元に創った作品だし、あれは
あれでいいんじゃないかなぁ…」と思われる諸氏も大勢おられる事だろうと思う。

作品自身は、決して無価値では無い。

しかし、観た者が、あの主人公が救いを与えられホッとさせられるラストを観て、
『これはこれでいいんじゃないかなぁ』…と思ってしまう事を問題視したいのだ。
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^

作品を創る事自体は価値が有る。

しかしこの場合、『活きたメッセージ』にはなっていない。
        ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^

それは何故か。以下、話は「作品創り」のレベルになる。

アニメーションは、「夢」の世界の範疇の作品創りである。

これに対して、「現実」の世界の範疇の作品創りが挙げられる。
「ハゲワシと少女」に代表される報道活動、ドキュメンタリに始まって思想一般から
意見広告に至るまで、その範囲は膨大に広く活発で人間社会を直接的に支えている。

その表現は常に激しく、ダイレクトで、読む者観る者にインパクトを与えて屈服させ
るかの様に働きかける。

当たり前だ。現実社会では、「結果」を出せなければそれは無価値なのだ。
「結果」を出せない物など世に送り出す意味は無い。

そして現実社会で起こっている問題は、それ位に苛烈な書き方をしなければならない
程に惨たらしく不条理で、合点のいく満足な結果など存在しない…安心出来る「オチ」
などありはしない物なのだ。

私はそういった悲惨な事実を「「夢」の中の方程式」によって描く事に怒りを感じる。

彼等の死を「泣く事を楽しむ」娯楽の様に扱っている気がするのだ。
本当は戯曲的な演出などせずに事実をありのままに突きつけるのが一番効果的なので
ある。

しかし、それでは観客は劇場へ足を運ばない。チャンネルを選択しない。
「選ぶ」自由意志が民主主義の大事な基礎になっているから。

そこで「現実」世界の問題を「夢」世界の技術によって料理する、という手法が現れる。

私が発端の書き込みで挙げた「禁じられた遊び」「ジョニーは戦場へ行った」等の様に
「ファンタジー」や「おとぎ話」のレベルで描かれる作品群がそれである。
…しかしそれは「現実」を「現実」のままに描く事よりもさらにアクロバティックな、
難しい、そしてハッキリとした意図とテクニックの元に成されなければならない
たいへんな仕事なのだ。

ちょっと説明するが、ここでHIDE氏は…氏でなくとも、どなたかが
「この作品「うしろの正面だぁれ」こそ現実をそのまま題材にした作品じゃないか。
 実話の、その場に実際に居た少女のその後の手記を元に、綿密な取材と闊達な
 描写力で当時の「現実」をリアリズムを込めて再現した作品じゃないか」…といった
趣の反論を下さるかも知れない。

しかしそうでは無い。

映画という物は画面に現れた物体やセリフに語られた意味、そんな単純な事柄で
判断され論じられるべきものでは無い。

そこには、その背後には監督の『意志』が介在するのである。

そしてその監督の表現作法が「夢」だと言うのだ。
決定的に言えば、あれは『現実では無い』のだ。
その最たる所がラストシーンの、かよ子と家族達の幻影との再会である。

恣意的な操作『演出』が加えられた作品。
それには監督が「何を語りたかったか」という『テーマ』が課題として背負わされる。

しかし、さらにこの場合であるが、作品は「テーマを語って完結する」以上に
もう一つの重要な使命を二重に背負わされる。

監督は、「現実」社会の方にも有効な働きかけをする「活動」…「告発者」としての
社会活動の荷も負わされるのである。
何故なら、あの大戦のさなかに「殺されていった人達」を題材に扱っているから。
物言えぬ彼等の代弁者となる事を引き受けたのだから。
『テーマ』では無い。もっと大きな、社会に対して作品を送り出す上での『思惑』。
「企み」と言ってしまってもいいかも知れない。

「テーマ」…「夢」の世界の中の方程式では「至高の理想」として、揺るぎ無いほど
雄弁だった、魂震える「テーマ」も……「現実」社会の中での『力の構図』の前に引き
出されると、その光は途端に弱々しい物になってしまう。

「現実」社会の中では、『結果を出せなければ意味が無い』のである。
『採点』と『成果』の問題。その作品…監督の「仕事」が、「社会に対する働きかけ」
が上手くいったか、という『採点』が背負わされて来る。…何故なら監督個人の
作業では無い、多くの人々の「死」を背負って社会に働きかけている仕事だから。

これはシビアだ。
                      ソ チ ラ
「現実」社会での活動にも跨っている作品だから、「現実」方面での評価も負う。
           ^^^^^^^^^^

#20の方のTAGAWA、KYOGO両氏の発言で、この監督が社会活動としても真面目に
働かれていると知った。この人の行いは多分すべて善意から発して、の事だろう。

「当時を知らない子らに、戦争時代、その場に生きているかの様な追体験をさせる」
「少女の「悲しみ」を通じて、失ってはならないものを歌い上げる」…という
『テーマ』も、この作品は凡百のアニメと比べて遜色無い出来だと思う。

しかし、この場合はそれよりも重要な『成果』を上げる事を作品は担わされている
のである。何故なら、多くの人々の「死」を背負って仕事している訳なのだから。
それが嫌なら背負わなければいい。これはこのテの作品の背負うべき「宿命」なのだ。

そして、現代に於いて「それ」をしている作品が10年前、20年前に比べて確実に
数が少なくなって来ている以上、1本1本にかかって来る期待は大きくなって来る。

そこで…言いにくい事だが、ここで「声の小さい物」を作られてはマズいのである。

意図的に「風化」を狙っている連中に、そしてこの戦いを見つめている世間の人々に
「全体的に弱腰になっている」「発言が弱体化している」と判断されてしまう。

そんな争いがある事も知らない若い人には「そんな事俺達には関係ねぇや」…と
言われてしまうかも知れないけど、でも貴方達の生き死にの問題なんスよ。
俺はその頃には老いて使い物にならなくて徴兵されないだろうけど。

ズタズタに傷付いた主人公の少女の心に感情移入して『泣く』程度ではこの場合、
駄目なのだ。「駄目」とはHIDEさんにはキツい、腹の立つ表現かも知れない。
でも言っている意味を汲み取っていただけるだろうか。

何故なら戦争の現実では、少女一人の生命なんて物は塵一つにも満たないのである。

『泣く』のでは駄目なのだ。

『人生の向きを変えさせられる』位の衝撃でなければ。『有効打』にならないのだ。

民族一人一人がその位の覚悟を持って事に立ち向かわなければ、あの暑い夏に
恐怖と絶望の中で焼き殺されていった人達に申し訳が立たない。
『泣いて』いちゃ駄目なのだ。
そして、「感動」したり「こんな事は沢山だよね」とか思っていたりしては、
いつか「風化」の意図を持った人々が確実で巧妙な手段で本格的行動に出た時、
その時にはっきりと立ち上がれ無くなってしまっているかも知れないのだ。

判って戴けるだろうか。

作品そのものの事を言っているのでは無い。作品自体の内容は純粋で、無垢だ。
貴方の感性をどうこう言っているのでは無い。それは澄んだ感性だ。

しかし今語っているのはそんな事とは無関係に重要で、過酷で、宿命的な問題なのだ。

今はっきり重ねて言うが、『ガキの遊びじゃない』とは、まぁ、そーゆー事。

好き放題書いてばっかり居る様だが、俺も将来、必ず行きます その戦場に。
野坂さん、長崎市長さん、待っててくらはい(笑)。ヨッテル>(^_^;)


好きな事ばかり言って来たが、これは作品に対しての私の「期待」であって、
物創りが現実に上手く行くとは限らない事は無論わきまえている。

観客にこの映画は受け入れられるか、何が客を引っ張りそして客の中に何が残るか、
興業収益は、赤字は出さないで済むか、地方自治体はこれを上映してくれるか、
そしてそのために自治体の要求にどこまで答えなければならないか、…等々、
監督が頭を痛めた問題も多かった事だろう。
ひょっとしたら(仮定の話だが)直接的な、「柔らかい内容にしてくれ」…等と言う様な
圧力がかかった事すらあったかも知れない。

また、もしくは、製作状況か…それとも監督自身の限界か、御自身としても不本意な
出来であったりするかも知れない。もしくはそうで無いのかも知れない。

そして、もし今自分がその場に立たされたら、とてもじゃないがこの作品のレベル
まで到達は出来ないだろう。映画をナメちゃいけない。この作品程度の「臨場感」を
演出するためにだって、一体どれ程の技術が投入されている事か。

しかし私は「創作者」というより「思想」から、この作品に対しては何かを言わざるを
得なかった。看過してしまうと、このテの運動がどんどん弱体化し、希薄になって
しまう…そんな危機感に襲われての事だ。
そして突ッ込まれて、自分の考えをこれだけ長々と吐露するハメに陥ったという事。
それだけの事。

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
さて、話はもうちょっとだけ続く。今度は、私とHIDE氏の行き違いの話。
言いたい事は既に語ったので、以下は今回の論争(?)に興味のある人だけ読んで欲しい。

先程「「感動」こそは不可侵」みたいな事を書き連ねていたが、それは「意図的に」
感動する者のガラ空きの足元をすくってやろう、という悪意がある場合のこと。

もし論議の上で必要な事であったならば、当然の事だが、相手が傷付こうが泣こうが
喚こうがそんな事に構ってはいられない。

作品にどうしても論じられなければならない欠陥や疑問点がある場合、論者がそれを
取り沙汰す事によって「感動」した者の気持ちが害されたり疎外感を味わったりする
事があるかも知れない。だがこの場合は「悪意」とか「無粋」という話とは別の事。
論じる者には彼の「感動」に介入する意志など無い。

当たり前だ。

むしろ、その相手をしなければならない論者は自分の言わんとする論点に到達する
まで余計なお荷物を背負いこむ事になる。それは発言した者の義務だが。

私に、貴方の感動を揶揄しよう等という「無粋な」動機は無い。
そんな事に構っている暇は無い。

投げた言い方をすれば、「知ったこっちゃ無い」のである。

要するに、HIDE氏が「悪意」だの「侮辱」だのと受け取った印象、
それは氏の一人相撲である。

思想の違い。それだけでしょう。
							ゆ~さく。


P,S。私も「可憐な生命を守りたい。何故こんな不幸が世の中にあるのか考えたい」
   …という気持ちにさせてくれる作品は大好きです。しかし、この作品を観て
   「これでもいいのかなぁ」…と思えなかった…。場合が場合なんですよ。