#194 Article 2716 Posted at 1996/03/28 01:42:30 by ウメポン (MAP2007) []

Subject: 僕にとっての えう゛ぁ

基本的には26話の感想です。でも、なんか違うので、独立アーティクルにしま
した。


 『新世紀エヴァンゲリオン』というアニメ作品について語る場合、その語り方に
は、浅はかながらふたつの視点があると思います。


1.単なるアニメ作品である。SFであり、オカルトをモチーフにし、謎をちりば
 め、昨今のアニメより「濃い」作風でファンを引きつける。
  ただ視聴者を喜ばせ、カタルシスを与えるために存在する「エンターテインメ
 ント」である。


2.単なるアニメ作品の皮を被りつつ、実はそれらを否定することを目的(?)とする
 思想的アニメ(?)である。
  視聴者を喜ばせず、逆に苦しめ、その内面をえぐる。視聴者は決してカタルシ
 スを得ることは無い。


 正直言って、間違った見方かもしれませんし、表現が誤っているかもしれません
が、ご容赦戴ければ幸いです。
 少なくとも、僕にはこう「見えてしまった」のです。


 エヴァを見る前に、心に決めたことがあります。それは、「このアニメを、自分
がアニメを鑑賞する態度のターニングポイントにしよう」というものです。

 それまでのアニメは全て、「感情によって」見ていたといっても過言ではありま
せん。単純に「どのキャラが好き」「この話面白い」「なんか気に食わない」「な
んとなく感動した」等々。今までの僕の見方というのは、全てこういう感情による
物でした。
 ようは、「好き嫌い」です。

 こういう見方って、子供の見方ですよね。でも、だからこそ、「基本」でないか
と、思ってます。
 今でも、こういう見方が一番楽しいとは、思います。気楽ですから。

 でも、これじゃダメなんですよ。少なくとも僕にとっては。
 僕は、今は箸にも棒にもかかりませんが、「創る人」になりたいと思っていま
す。強いて言えば小説家ですね。まだまだお話にもなりませんが、いつかはきっ
と……。

 で、小説家は、ただ好き嫌いで話していては、ダメなんです。話の構造とか、演
出とか……そういうものを構築できるようにならないとダメだと思うのです。

 だが、僕は人と何かしら「作品」について話すとき、感情でしか話せなかった。


 まあ、小説家になりたい云々は別にしても、ただ好き嫌いでしか物事を語れない
ようでは、人としても「ダメ」だと思いました。


 そんなとき、ニュータイプ4月号(だっけ?)を見ました。そこに載っていた庵
野秀明の言葉「こんな年にもなってアニメが好きでいいんだろうか。そういう日常
に疑問を持ってしまった」という、あれです。(文は思い出したまま書いたので、
間違ってでしょうが、文意は当たらずとも遠からずだと思います)

 これ見て、表層的な好き嫌いだけでなく、深層の「作品が言いたい物」を、少な
くとも見つめようとする見方をしようと思いました。


 ところが、そこには謎解き同人誌を作っている自分が居たのです。「1」の態度
で。
 確かにそれはそれで楽しいのですが、アニメージュにも書かれたとおり、謎は話
の本質では無いのです。
 それが分かっているつもりで、実は分かっていなかったという事に、23話の『
涙』で気付かされました。
 レイが死に、死海文書には17体の使徒が書かれているとゼーレの面々は言う。
リツコさんが涙ながらにミサト達に真相を語る。
 この謎がぎゅうぎゅう詰めの回を見て、僕はオーバーヒートしてしまいました。
その謎を処理しきれなくなったのです。

 今までさんざん、カバラだとかセフィロトの樹だとかを追ってきました。それが
エヴァとどういう関係があるのか、必死に考えてきました。
 しかし、最後の肝心要の「死海文書」は、どこをどう見てもエヴァと関係がない
のです。

 ここに、エヴァというアニメ、そして庵野の怖さを見た気がしました。
 まず、設定という「表層的な」謎にとりつかれた。しかし、話の本質はそんな物
ではなかった。それを語るために、最後の最後で現実と全然関係ない、『エヴァ』
の死海文書を出した。
 謎解きで振り回され、肝心なところで関係ありそうで全然関係ないものを出す。
「今までおまえがやってきたことは、話の本筋にとってなーんの意味もないんだ
よ。バカめが」と言われた気さえ、しました。

 リツコ達は神を拾ってもて遊び、エヴァにとりつかれ、罰が当たった。僕は謎を
拾ってもて遊び、結局話の本質を見れていないという罰が当たった。

 そう、結局僕は、本質を見ようと思って見始めたのに、表面の「謎」に捕らわれ
てしまったのです。
 あんこを気にしようと思ったのに、結局まんじゅうの皮の味見ばかりをしてし
まったようなものです。

 3月号のアニメージュのエヴァ特集の最後は、なかなか耳に痛かったです。


 そして25話と最終回。見事としか言いようが無いです。死海文書も、ロンギヌ
スの槍も、使徒も、そして、エヴァも……。すべての謎を残し、内容は訳の分から
ん心情描写(?)ばかりになっていきます。
 そのあげく、学園物のような夢。最後は訳の分からん「おめでとう」。

 煙に巻かれたように感じましたが、僕はこの「おめでとう」を見て、心底大笑い
してしまいました。腹を抱えるほど笑ったのは久しぶりです。
 まったく、何が言いたいか分からないが故に。そして、半年必死に追ってきたも
のが全て雲散霧消し、訳の分からん「おめでとう」に集約されてしまったが故に。


 『エヴァ』は何が言いたかったのでしょうか? 

 恰好良さなどに惹かれ商品を買いまくり、視聴率上昇に貢献してきた、表層的な
見方しかできない、人との付き合いがうまくいかない、共通の話題を持つ者としか
話せない(庵野自身を含めた)アニメオタクへの警告? 
 「まじめにやっていれば(見ていれば)必ず成果がある」というめでたい奴に、
世の中にはいくら考えても決して答えが出ないことがあると言う忠告?
 自分の行動の全てに存在意義を、客観的評価を見いだそうとする客観的評価絶対
主義者への哀れみ?

 ここに上げたものへのメッセージを「エヴァ」が持っているとしたら、全てが僕
に当てはまります。
 僕は、人の存在とは「客観的な評価」が全てを決すると信じていた。自分一人が
無人島に居て、そこで解脱し完全な満足を得たとしても、それを評価しうる「もの
さし」としての客観的な評価が無ければ、そんなもの無かったも同じ。仏陀の、キ
リストの、ムハンマドの行為も、全て尽き従い、共感するものがあって初めて「価
値」が生まれるものなのではないか。
 人の記憶・子孫・等々を地に刻み、その証が残って初めて、人は存在する。そう
でなければ空を漂う塵と同じだろう。
 人の評価を得るのが人生目標なのだから、評価を得られない(だろうと思われ
る)行為をする事は怖い。それは、自分の存在意義を否定することなのだから。

 これらの態度をとる人間を、「エヴァ」が全否定したわけではないと思う。しか
し、大いなる疑問符を付けて、視聴者に投げつけてきたのは事実だろう。

 これに気付かされた・考えさせられることになっただけでも、エヴァは僕にとっ
て重要な位置を占める作品になると、思います。


 僕は、少なくとも「2」を掴もうと心がけ、エヴァを見たつもりだった。しか
し、結局の所「1」の見方しかできなかったわけです。


 こうしたことを理解したと思っても、僕はまだ、「1」の見方しか出来ないので
はないか、と思います。
 「2」の見方をし、誰かの心情に対しての発言をする。しかし、もしそれがよっ
てたかった否定されたらどうしよう。
 それよりも「1」の見方をし、「エヴァって恰好いい!」「アスカ燃えっ!」と
言っていた方がどれだけ楽か。そして、気持ちがいいか。

 ここに成長はあるのか。他者との真の理解はあるのか。そして、このままで人の
心を揺さぶることはできるのか。多分、無理でしょうね。
 今後も表層的な快楽に逃げ込み、表面的なカタルシスを得られる「エンターテイ
ンメント」性ばかりを追い続ける。


 それが分かっても僕は、見るという受動の面のみならず、創るという能動の立場
でも「1」を当分、続けるしかありません。「2」について、まだそのとっかかり
を掴んだにすぎない。
 とっかかりを掴んで悩むだけでは生きていけない。たとえ「1」しかなし得ない
と分かっていても、僕は、何かをやりつづけるしかないのです。切迫観念にかられ
てでも。
 「何かすること」そして「それに対しての評価が下されること」。これこそが僕
の存在意義なのですから。
 僕はまだまだ、客観的評価こそが人間の価値であると信ずる気持ちの方が強い。
そして、それが故に、人の反応が怖い。

 一体、最善の方法は何なのでしょうか? と疑問形で書き込むこと自体、他人の
中に返事を、ものさしを求めていることなのでしょうね。


 エヴァは、凄いアニメでした。僕にとって。

MAP2007 ウメポン

P.S.まあ、LD改訂版とか劇場版は、純粋に楽しみにしています。今後のGAIN
AXの作品も。「1」の立場で。
 同人もやり続けますよ。謎解きももちろん。なんだかんだ言っても、楽しいもの
を切り捨てる気には、なれないから。