#134 Article 481 Posted at 1993/01/20 04:32:05 by ISAM (MAP1129) [NO.01]
Subject: Re:*23 曇りのちみかげ /478 ....... /311 /310
まあ、私は、少なくとも好きなものの前では誠実であろうと考えます。 某ボードの引きではあるが、失礼なことは承知なんですけれど、こーゆう極めて主観 的な主張(以降の文章ではない、上だ)がネット上でゆるさせれてもいいでしょ。 ね、ね、ね。 うーん、でも今回は結構考えさせられた。 既存の理論書あたりにでも頼ろうと思ったけれど、本屋にいったらそーゆう本がちょ うどなかったのと、現物を視聴した段階で自分の頭になかったものを後から拾ってくる のもどうかということであきらめた。 まず、明らかにしたいのは、何度もインサートされる曇空が月や日にかかるシーンを 本当にモンタージュとして考えていいのかという問題(これを本でチェックしたかった )で、これは個人的には単なる不安の象徴や心象風景、描写でありモンタージュ的な用 法ではないと考えるがどうだろうか(光るタネはさらにわからん。とりうえず登場させ ておけば伏線になるという考えは間違いだぞ!)。 このへん詳しいかたがいらっしゃたらぜひともご教授いただきたい。 新しい意味を発生させるというよりも、ある種の強調の意味しかもっていない。 なぜこういうことを突然いいだしたかというと、多少反省したあげく3度ほど見直し た結果として、やはりというか、感動又は、感心するような映像、演出的な技法を一つ も発見できなかったからである。 結論としては、極めて平易かつ平凡な映像であり、技法的には先週の姫ちゃんのほう が度胆をぬかれたぐらいというレベルである。 さて、こういった演出技法に我々は何をみたのだろう? 演出と脚本は、映像段階では分離しがたく、この点でこのボードでの書込みは結構悩 まされた。曰く、「脚本は悪いが」「脚本は感心できないが」という言い方である。 ここでの脚本は、たぶんセリフの台本、ストーリーの段取り程度の意味ではないと考 える。あとはテーマの語り口か。 この時点において、僕個人のシナリオ至上主義的な考えはひじょうに大きな衝撃をう けた。それは映像自身に衝撃をうけた人達、それを感動としてとらえられる人達にとっ ては、物語性、ドラマ性の欠如というのは、かならずしも致命的ではないのではないか という疑問であり、むろんそういった立場にたてば前述したような脚本の不在さえも決 定的な要素とはならないということなのである。 こうした立場に対して、この段階において話題をもつとすれば、脚本必要論と脚本不 用論のまったく交わらない平行線にしかならず、もし少しでも話が交わる部分を模索し ようとすれば、「シナリオ至上主義」を疑う、又はそれに立脚しない立場で作品に感想 をのべなければならないからだ。 しかし、正直にいってそれは極めて困難であった。 1回目に見たときの不満、2回目のそれ、3回目のあっけなさ共に、どうしても僕個 人が知る脚本的な部分にかかわってくるのである。 少し視点を変えて、某氏が主張するような「おにいさまへ」といった作品の演出的、 又は映像的、ドラマ的感動などに思いをはせたしても同様であった。 というわけで、ここで僕はもう一度脚本に戻ってこなければならなくなった。 なぜ映像作品に脚本が必要か、もっと限定すればなぜ日本のTVアニメに脚本が必要 かというという疑問にである。 しかし、この問題に答えるのは比較的容易であるように思われる。 それは、脚本執筆などといった作業の段階で、基本ストーリーや、テーマの次に必ず くるということに(一般の解説書などでは)なっていて、脚本の最も重要な要素の一つ になっているものだからだ。 おどろくべきことに、僕はこれについて失念していたために、「脚本は悪いが」「脚 本は感心できないが」といった話を間にうけるところだったのである。 話を、進める。 結局それは何かというとあっけない・・・「構成」である。 映像作品に構成が存在しないということは現実にはありえない。 時間軸にそって映像が並ぶという現実を覆せないからである。 そして編集という再構成の作業的な時間と材料自体の量的な余裕がそれほどないはず のTVアニメにおいては、最初の構成がより決定的なのだ。 ということで、脚本の意味を問い直し、ミラクルガールズ、1話の問題についていく らかシナリオ的(ストーリー的)な方向からアプローチしてみよう。 いくつか状況設定に問題があるシーンが存在する。 例えば、2回のテレポートに関しては、それぞれ衆人が見守る、又はその可能性があ る状況の中でおこなわれていて、物語的に非常な混乱と、展開の断絶をおこしている。 劇なかばのそれは特に、感情の爆発的な強調が劇内において現象として表にあらわれ てしまった結果のもので、その点においてだけ考えれば、演出的な珍しさはないものの 強烈なイメージを見る側に与える。 しかし批判を加えれば、極めて恣意的かつ単層的な意図としての爆発なために物語全 体に大きなダメージを残すことになってしまっている。 この行動は必然的に対応する先輩の側のリアクション(この場合は「茫然とする」だ 。つまりアニメ製作者はこの場ではリアクションを形成できず先のばしにしたと考えて もいいだろう)を要求するのだが、これ自体が物語のテーマ性とそぐわないものなので ある。少女の内的な完結であったはずが、それが噴出してしまい外的な物語の帰結を必 要としはじめたのだ、むろんそういったものは物語には用意されておらず、それは再び 少女の内的な問題として押し戻される。結果として、それを押し戻す行為者、この物語 においてあこがれの先輩のキャラクターは明確に歪んだ方向へと押しだされ。急速に破 壊されていく。 実のところを言えば、物語において超能力は反コミニュケーションの働き(テレパシ ーさえも!)をもっていて逆説的なのである。この点はこの物語においては極めて興味 深い着目点だが、それが生かさせることはたぶん今後ともないだろう(と思う)。 面倒くさいのでがっととばしてラストにいこう。 ここはなかなかひどいシーンだ。 まず、突然話は数週間程度とんでいると思われるのに、それを見ている人間に感じさ せない。 いや、それがいわゆるシナリオのキズで、仮に次の日のことだとしても問題になるシ ーンが間の時間に抜けてしまっている。再度の先輩との対面の瞬間であり、そこに先輩 のリアクションの続きが本当はおさまるはずなのだ(この欠如は先輩という人物の造形 に悪い影響を与えていると思う)。 つまり、前のシーンで、少女が夜中に模型を組み立てたりなんかして、内的な解決を 表現しようとしても、物語の要求しているのは外的なそれなのだ。 ここに至って、話はとんでもないことになってくる。 なぜか結婚式であり、そういって場面的な問題が、視聴者を目をごまかすが、話はそ んなに簡単には解決しない、雪が降りはじめ、少女は舌をだして雪をなめる、それは非 自立的ではあるが先輩への反発のあらわれである。先輩は少女の、前向きとも、先輩の 負い目に対するいたわりとも思える、言葉をいう。 先輩は「そいつあすげーや」と答える(^_^;) 突然、先輩は時計をくれると言いだして、それはイギリスに住んでいする親戚から貰 ったものだという・・・なんで時計を、でもって今なぜ、もしかして今持っていた手頃 なものが懐中時計しかなかったのか? 実は最初見たとき色々疑問に思った(タキシー ド仮面様のオルゴールのほうがまだ使い方としてはマシかな)。 で、少女は「先輩ふんぱつしましたね」などと言うことがなくなってわけのわからな いことをいう。 物語的にすごく座りが悪くなったので、双子の姉が、妹の感情をテレパシーでよんで 色々説明をはじめる。 言葉による説明の排除だかなんだかというよくわからないものは崩壊してしまう。 最後の説明がなければ、物語が完全に崩壊しそうなことはすぐわかる。 しかし、これが僕が反コミニュケーションという逆説が今後とも生かせないだろうと 感じた最大の理由なのである。 そして我々視聴者は「最低な先輩」に恋してしまった、哀れな乙女に同情する、と。 映像によって登場人物の性格が語られて・・・などまったくいないことはわかってい ただけるだろうか。 個々の演出は、感情を強調はするが裏をもたないので、非常にうすっぺらいのだ。 また、最近のアニメに極めて顕著な傾向の一つとして人間を関係として描けない。 A、B、Cの3人が登場するときに、Aの性格を描こうとすると、B、Cがそれに対 する人形のようになってしまって性格があらわれない。 それに、AB、BCといった個々の人間の関係は描けるが、ABCが登場する関係の 場というのが描けないのだ。 その犠牲になっているのがまず先輩だろう。 結局のところ双子の姉のほうは先輩をどう考えているのか? なんだかすごい演出で先輩と少女の感情が劇的に盛り上がったりするが、それに対し て彼女は無関係な人形なのか・・・すげー変である。 ということで決着をつけよう。 実のところ、このアニメは保守性を期待しているのだ。 だから、どこも新しくなんかはない。 自身の、キズやほころびを視聴者側が最初から持っている何かで埋めてほしいのであ る。そうしないと物語として成り立たないのだ。 物語がわかりにくいのは、演出のせいというよりも、そこに狂いが生じているからだ と思うが、実のところその原因は「特異な演出」、「演出的実験意欲」のせいというよ りは、劇的効果のためなのだ。 意図として、平凡な日常というのに対してその中での劇的なシーンというものを対峙 させてみたいわけだ。しかし、そのために構成をムチャクチャにしても平気である。 OVA的という形容は、これで説明される。 つまり描きたいシーンだけ描いているからだ。 見ている側もそんなに座りごこちは悪くない、なぜなら本当に劇的な精神にゆさぶり をかけるようなドラマが意識的に避けられているからだ(物語展開の保守性だ。これが 一番嫌い!!! 楽すんなよ。また前述のように逆に、うまくそれをテーマとしうるだ の見識が監督、シリーズ構成にあれば!)。 でも頭に残らない。 僕がなんで、3回も見たかというと、何も頭に残らないからなかなか書けないという理由もあるのだ。 てな感じが理屈づけですね。 ただし1回目に見た不快感はたぶん、先輩の性格と、テーマの持つ基本的な保守性、 物語の保守的な展開あたりからきているのではないだろうか。 というわけで「おにいさまへ」とか「観客に対して云々」などといわないで、自身の 感想を書いていただけるかたがいれば嬉しいのですが? しょうじきいって、ミラクルガールズのオープニングはとてもいい!! オープニングで後ろに飛びのく二人のような実に愛らしくオトメチック(死語)なシ ーンがシリーズ全体に一回でもあれば嬉しい(そーゆうのをアニメっていうじゃ?)。 で、さらに1クールに一回面白いアニメになせば最高。 最近のアニメには、「まるでダメ」、「シリーズ1回」、「1クール1回」、「3話 に1回」、面白いという分類をしているもんで。 ま、昔々書いたようにクズアニメでもなんでも見るときは見るのですが。 無駄に長いうえにグチャグチャですまぬ。 ISAM